美術との本当の出会い 前編:美術と出会うまで

  今回は私が美術の教師をするようになったエピソードを前編・後編で2週に渡ってお話ししたいと思います。ただ、自分の人生をつらつらと書き連ねるだけでは自己満足にしかならないので、想像力と創造力、進路を決める直感や行動力に絡めて書きます

 私は幼少期から物を作ったり、絵を描いたりすることが普通の人よりは好きだったと思います。私は保育園に行かず、ひたすら家で積木を組み立てて遊んだり、時には庭に向かって積木を投げたり、広場を車(キックして進むやつ)で走り続けたり、小川に葉っぱを浮かべて船に見立ててみたりと、幼児としては割と社会性を培うことなくひたすらマイワールドで自由に生活していました周りのものは全ておもちゃになっている状態で、私は覚えていませんが、兄曰く、兄がお小遣いをためて買ったビッグエッグ野球盤という昔大流行りしたおもちゃを本来とは違う遊び方をしてパーツ紛失、破壊してしまったそうです。まさに自己中の塊。しかし、そんな生活で培えたことも沢山あったと思います。それは一人で夢中になって取り組む集中力です。やると決めたらひたすら没頭。ある程度の形になるまで取り憑かれたように活動を続けていました。そんな孤独な生活を謳歌していた中、とうとう他者との関わりが幼稚園に入ったことで生まれます。

 幼稚園に入った時、すぐに近所の子供を中心に友達ができました。これは今思うと、とてもラッキーなことでした。社会性ゼロの私が何も労せずして貴重な仲間と出会えたのですから。社会性ゼロの私は幼稚園でもやはり自己中な印象をもたれていました。先生からは「普段は凄く頼りになるのに、達脇くんが面倒だと思う時には、その場からさっと消えてしまいますね。例えば、泣いている人が近くにいると、さっきまでそこで遊んでいたのに何処かへ行ってしまう…」これを言われた時には自分自身全く自覚がなかったのですが、周りの子供が「あ〜、確かに!」という反応だったので強烈に自覚しました。自覚やメタ認知という言葉が昨今教育界ではもてはやされていますが、強烈な自覚は記憶に本当に残ります。そういう、自覚をさせていただいた当時の幼稚園の先生はさすがだと今になって思います。

 幼稚園に入ってもやはり自己中を継続していた私にとって、頼りにできる友達が常に近くにいたことは幸運としか言いようがありません。友達とはごっこ遊び、テレビゲーム、野球やサッカーを始めとした色々なスポーツ、バス釣りなど、色々な経験をすることができました。彼らのおかげで友達と遊んだり、スポーツすることの面白さを知ることができました。あと、人とコミュニケーションを取りながら遊ぶことができるようになりました(笑)。当たり前のことですが、幼い時は友達と色々な遊びをすることが大切であり、その経験が大人になってから色々なことに興味をもって仲間やチームで「遊ぶ」ように工夫しながら新しいことに取り組む力になると思います。遊びは全力でやるからこそ楽しいのであり、相手がいると競い合って力が出ます。良いチームはそのように楽しみながらも良いプレーを目指して切磋琢磨することができる雰囲気に満ちているものです。

 私は小学校で野球(5年の秋から)、中学校から高校(2年9月で退部)ではソフトテニス、大学では軽音楽部に入りましたが、活動がうまく行っている時というのはプレーを向上させながら、部活動を楽しみ、チームの良い雰囲気でさらにプレーを高めていける良いサイクルが生まれていたと思います。そして、そういう状況にいると、個人でも自主練習に励めるようになります。良いチームの一員として自分の価値を発揮したいと考えたり、そういう中でプレーの本当の魅力にもどんどん気がつけるようになって、自然とPDCAサイクルが循環していきます。

 このような生活をしていた私なので、実は美術とあまり関わりがない人生でした。実際に今でも絵を描くかスポーツをするかと聞かれたらゼロ秒でスポーツと言います(笑)また次回深めて話しますが、美術とスポーツなら選択困難です。よく「美術=絵を描くこと」と認識している人が多いですが、はっきり言って全くの別物。テニスと鬼ごっこ以上に違うぐらいです。「美術好き=絵を趣味で描いている」という考え方は、テニスが好きな人に対して「じゃぁいつも鬼ごっこしているんですか?」と聞くようなものです。しかし、これまでの日本の美術教育を考えると、多くの人がそのように「美術=絵を描くこと」と認識してしまうことも仕方がないと思います。

 私が何となく美術を仕事にすることについて考えを持ったのは高校1年生の時の担任との面談の時でした。「大学はどこへ行きたい?」という質問に、何となく「京都市立芸大」という言葉をチョイスしました。絵を描くことはそこそこ得意で物を作ることも好きという大変浅はかな考えで西日本最難関の芸大の名を口にしたわけです。これ、今思うとただの冗談にしか聞こえません。なぜなら、そもそも私の通っていた京都府立福知山高等学校は普通科の学校であり、さらに私は当時のコースでは一番国立大進学に特化したコースであるⅡ類理系にいたためです。ついでに言うと、このコースでは1年時のみ芸術の授業があって、音楽と書道、そして美術の中から一つだけ選択できます。私は迷わず書道を選択していました(笑)。「字が美しく書けるってめちゃ実用的やん!」ただそれだけの理由です。音楽や美術も好きでしたが、書道の実用性に比べると学ぶに値しない、そういう判断でした。この判断、結果的に大正解でした。書道で学んだことは今でも大変役に立っています。話がそれましたが、当時の担任が私の言葉に「アホか!」と反応したのは100%納得が行きます。私が同じ立場なら間違いなくアホとまでは言わなくとも「は!?嘘やろ!?」というぐらいの反応は返してあげることでしょう。とにかく、高1の段階の私は計画性ゼロの何も分かっていない自由人でした。キャリア教育の必要性が叫ばれる昨今ですが、高校に入ってからも訳わかっていない私のような人でも、その後のきっかけ次第でそこそこ社会で通用する人間になるわけです(笑)

 なんだかんだ面談がきっかけで少しは自分の進路について考えるようになり、自分の武器になる教科を考えました。そして選んだのが「英語」でした。これまた変な選択だと周りは思ったことでしょう。なぜなら、私は中学校の時から英語が嫌い&苦手で、むしろ英語のみ強烈な苦手意識を引きずりまわしていたぐらいです。しかも理系コースの人間です。2年生や3年生になって理系コースに身を置きながら、英語や国語を受験の柱にする、いわゆる「文転」する人もいますが、1年生の夏前にいきなり文転、しかも当時の得意科目は数学という中での狂気の判断でした。面談での話題を友達とすると、みんな「たっちゃん、英語嫌いやったのにどうしたん?」と言われました。なぜ英語にしたかというと、これまた単純で、中2の時に見た映画「冷静と情熱の間」という映画で見たイタリアのフィレンツェの街並みが美しすぎて、いつか海外に行きたいと思っていました。英語力があれば1人で旅行したり、あわよくば通訳として世界中を周れると思ったため、当時の自分が考える一番実用性の高い英語を勉強の柱にしたのです。結果的にこの選択はまたまた大正解でした。文転した私は英語だけでなく、国語の面白さにも気がつき、文系男子の道を歩み始めます。

 英語を使った仕事がしたいというのはかなりしっかりした意志になり、これは今でも変わりません。しかし、すぐに教師を目指したわけではありません。私が教師になろうと思ったきっかけは受験の失敗と単純な考えからの大学選択にありました。英語と国語を愛に愛でていた私ですが、センター試験ではそれぞれ目標としていた点よりも遥かに下、6割台(120点ちょっと)の点を叩き出してしまいました。模試や過去問では気楽に解いて、何なら問題内容を味わうぐらいの余裕がありましたが、試験本番では「絶対に全問正解してやる」という、過去に達成したこともないような目標を立て、プレッシャーを自分にかけた結果、時間が全く足りず、最後は問題をまともに読まずに解答するという自爆劇を演じました。結果に囚われすぎると、逆に力が出せない強烈な教訓をセンター試験という大舞台で得ることになったのです。幸いにも他の教科である程度点数をカバーできたので、何となく自由そうなイメージ(琵琶湖が近くてバス釣りが好きな自分にとっては中学校時代からの憧れだった滋賀、そして京阪神のほぼ一部としてそこそこ都会な大津市)の滋賀大学教育学部を受験しました。二次試験は国語と英語だけだったので今度こそ愛でに愛でる気持ちで勉強して試験当日も完璧な手応えで合格し、入学しました。この時に勉強は愛でることが大切で、テストは「できて当然」ぐらいのリラックスした状態で臨むことが大事であると学べました。それが今の「学ぶことは間違いなく面白い」をスタンスにした自分の教育理念につながっていると思います。

 結果的にセンター試験の失敗、滋賀大学教育学部への入学は正解でした。もちろんセンター試験に成功していたら、それはそれで良い人生になっていたかもしれませんが、美術との出会いは遅くなっていた可能性が高いです。私が選んだ滋賀大学教育学部は大変小さなキャンパスで、滋賀大学自体は総合大学ですが、もともと経済学部と教育学部しかなく、教育学部は大津にある千人程度しか学生がいない単科大学さながらのキャンパスでした。華々しいキャンパスライフとはほぼ無縁な、大変のどかな場所で老朽化の進んだ汚い校舎ばかりの大学だったため、その部分に関しては最初は少しテンションが下がっていました。しかし、教育学部という学問的には理系文系芸術系が総合的に学べる環境があり、小規模故に教員と学生の距離が近かったこと、これが幸運でした。たくさんの大学の先生によく相手をしていただいたと思います。大学の教授と話をすると、ものすごく勉強になりますし、挑戦しがいがあるため、できれば良い教授を独り占めすることをお勧めします。

 私は英語について学び、塾の講師として英語と国語を中心に教えながら教育というものの魅力に次第に気が付いていきました。英語や国語を教えるには言語学や多様な価値観を吸収する姿勢について考えを深めておく必要があります。大学で学んだことや自分で研究したことを教える場で実践し反省する。そういうサイクルを行っているうちに自分の中に哲学への興味が少しずつ芽生えてきます。そうして気が付いた時には早くも4回生になっていました。

 4回生になる頃には卒業や英語の教員免許に必要な単位はほぼ履修していたので、その気になれば週に2〜3回の講義を受けるだけでも良かったのですが、いくら国立大で学費が安いと言っても、それだけで年間60万円の学費を使うのはもったいないと思いました。軽音楽部の後輩から3回生の後半ぐらいから美術の授業を誘われ、時々参加するようにしていたので、暇つぶしのつもりで中学校以来の美術の授業を本格的に受けることにしました。この偶然の判断が私の価値観を180度変わるきっかけになったのです。


 私が履修した授業の中の一つに「現代絵画」というものがありました。この授業では抽象絵画など現代の絵画について学び、実際に制作をするという内容でした。私は単純に遊び半分ぐらいで授業を受けていたのですが、ある日の授業で先生がピカソについて話をしてくれました。その時に雷に打たれたような衝撃を受けます。ピカソの絵について深く考えず、奇抜な絵ぐらいにしか考えていなかった私は、ピカソの絵についての説明に「ピカソの何が凄いか納得させてもらえるかな」と興味津々で聞きました。その内容が、 

 「ピカソのキュビスムという技法は、あらゆる角度から対象を捉え、それを一つの画面で再構築する描き方です。この絵の人物は顔の左と右、正面全てが一つになっています。」

 という話を聞いて、「なるほど!そういう描き方だったのか!」と普通に感動をしました。それまで訳が分からない奇抜な絵から「非常に計画的に描かれた絵」というレベルアップです。しかし、はっきり言ってそれぐらいで人生の進む道を変えようとは思いませんよね。この次に言われたことが自分にとって大変価値のあるものでした。

 「対象の真実は、今自分が見ている固定した視点からだけでは分かりません。あらゆる角度から捉えることで本当の姿が見えてきます。それを表したピカソのキュビスムは対象の本当の姿を表していると考えられます。」

 そのような趣旨のことを話されました。これに私は完全にやられました。自分の見ている姿は本当の姿ではないということ、あらゆる断片を組み合わせることで少しずつ本当の姿が見えてくること、その断片を見ようと努めること、この意味を強烈に感じたのです。私は英語を教えている時に日本人としての視点に囚われすぎないようにするため、英語を日本語訳するのではなく、大体の意味で掴むことが内容を理解する上で大切だと考えていました。例えば"like"という単語をすぐに「好き」と日本語訳する人がいますが、それは「好む」といった動詞や「〜のような」といった前置詞としての意味を見えなくしてしまいかねません。一つの視点に囚われることの問題点を考えていた私にとって、キュビスムという概念は強烈に刺さりました。その瞬間に自分の中での英語の重要性が美術のパワーに飲み込まれた感覚を覚えています。美術とは、あらゆる現象に波及するようなとんでもない世界なのだとその時直感しました。ピカソの「泣く女」は泣くという姿をかき集め、「ゲルニカ」は悲しみや怒り、恐ろしさのエッセンスを凝縮したこの上なく見ていて辛くなる、絵画だからこそできる究極のイメージだということに気が付けたことは本当にラッキーでした。

初めてキュビスムを利用して描いた作品。分析的キュビスムというもので、
モチーフを多様な角度から捉え、一つの画面に収める。


 そうして美術についてもっと研究していきたいと考えるようになった最中に教育実習を迎えます。母校である福知山高等学校で英語の実習生として3週間お世話になりました。実習は順調に進み、自分なりにもよく頑張っていたと思いますし、とても充実した時間を送ることができました。実習中は空き時間もあり、自分の中で熱く燃えている美術への思いは、美術の授業見学に私の足を走らせました。そこでまた強烈な経験をすることになります。

 美術の授業では油彩で自画像を描いていました。生徒は6名程度しか受講していなかったので、とても観察しやすかったです。観察の結果、特に美術的に学べることはありませんでした。ただ写真を見ながら色を置く。そんな写生を50分間観察するのは、私の睡眠欲を一気に掻き立て、立ちながら必死に睡魔と闘う時間になっていました。これはまずいと思って美術室を眺めてまわっていたのですが、どれも写生ばかりで、好奇心を掻き立てられる作品はありませんでした。一生懸命上手に描いているのはよく分かったので、生徒は本当に努力して描いて、それなりの達成感も味わっていることは感じられました。しかし、その美術室で目にしたものは美術教育の課題を私に強烈に考えさせるきっかけになりました。

 教育実習中に美術教育について考え、私は大学院で美術について研究し、美術教師になることを決めました。普通に考えたら英語と比べて美術の採用は皆無に等しく、美術関係の仕事もほとんどない厳しい世界なので、達脇またしても狂気の沙汰と周りは思ったことでしょうし、大学の仲間にその計画を言ったら当然のことながら「は?どうしたん?美術教師を目指す?アホ?」と返されました(笑)

 しかし、美術で大学院進学のことを両親に言ったら快く認めてくれました。これには感謝でしかありません。その代わり、学費と生活費は後で返すようにと言われ、その瞬間に生活費を含む200万円の借金確定です。こうして、後に引けない状況をつくり、自分のチャレンジ精神を強烈に刺激することを始めたのが22歳の時でした。この決断はまたしても結果的に大正解だったことは現在美術の教員として働いて、さらに次の段階に行こうとしている自分を鑑みて疑いようもありません。幼少期からアホに思われる決断を繰り返し、計画性ゼロと思われるような、明らかにADHD傾向のある人間でも、きっかけと頑張れる環境があればいくらでも成長して、価値をつくり出すことができるようになると思います。そして、アホと思われるようなことでも、色々と経験したことは間違いなく自分の想像力の引き出しとしてインプットされます。大人が正しいと思っている行いを躾と称して子どもに無理にインプットしてしまうと、せっかく感性が豊かで色々なことを体験を通して学べる子ども時代を犠牲にしてしまいかねません。なんなら、大人になってからも子どものように遊び、時には危ない橋を渡るぐらいのチャレンジをしても良いと思っています。そう簡単に人間は絶望的な状況になったり、死んだりしません。むしろ、普段からチャレンジしている人の方がいざというときに柔軟な対応ができるのではないでしょうか。将来に向けて果敢にチャレンジする子どもたちのそばにいる教師や親は、子どもたちにチャレンジと失敗をさせる教育が大切だと思います。そして、チャレンジさせる側の我々大人も子どもに言うからにはチャレンジし続ける責任があると思います。そう言う頑張る大人の姿勢は子どもたちもきっといつか気づき、信頼してくれると思います。私はこんな性格なので、付き合い始めの時に「ちょっと無理、ウザい」と思われることがよくあります(笑)、しかし、それは想定の範囲内です。諦めることなくある程度の距離を保ちつつ普通に関わり続けますし、愛でることは絶対にやめません。私のモットーはロックで学んだ「Love & Peace」なので(笑)。最終的にはあくまで自分の感覚ですが、それなりに良い関係を築いてきました。相手は心に隠しているものがあるかもしれませんが…(笑)

 美術との出会いと失敗だらけに見えて結果的に正解になった半生についてお話しさせていただき、大変長くなった前編ですが、ここまで読んでくださりありがとうございました。次回後編では、美術と出会い自分の考えがどう変わっていったのかについてお話ししようと思います。次回はさらに深めていくつもりなので、またよろしくお願いします!

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