旅は人生を変える 第4回 ローマ 〜パート2 本物と出会えるバチカン市国〜
前回から全3回に渡るローマについての記事を書いています。今回はローマの中にあるバチカン市国での体験から、「本物と出会える魅力」をテーマに話していきます。
大聖堂に入るには時間帯によってはかなりの待ち時間が必要になります。まさに長蛇の列が味わえます。これに関していうとツアーなどでサッと入れる方が良いですね。中に入るまでに2時間近く待つことになりました。ちなみにこの待ち時間にローマの街を歩く計画を練ったり、ひたすら広場を眺めることもできるので2時間と言うのはあまり長いようには感じませんでした。これも一人旅という時間に余裕のある状態だったからこそです。
広場の写真を見ても分かるように、この広場はスケールが大きすぎて全体を写すには上空からでない限り不可能です。この回廊がつくり出す雰囲気は広場の中心に立って是非味わいたいものです。カトリックの総本山であるサン・ピエトロ大聖堂。その前座的役割をもつこの場所は世界で最も荘厳な広場の一つであると言って良いでしょう。
この博物館には古代の名作もたくさんあります。有名なラオコーンも色んな角度から見ることができます。このような名作が当たり前のように設置してあるのがバチカン博物館の魅力です。本物にひたすら触れることができる圧倒的な体験を約束してくれるのがバチカン博物館です。よく博物館や美術館で鑑賞するのに疲れた時は流し見してしまうこともありますが、ここはあらゆる場所に流し見を許してくれない本物が待ち構えています。かなり気合を入れて足を運んで欲しいと思います。
写真撮影が許されなかったので、今回は写真をあげていませんが、バチカン博物館ではシスティーナ礼拝堂にも入ることができます。この礼拝堂の内部も世界史で勉強した際に見たことがありますが、そのスケールは実際に目で見て初めて分かるものです。この空間に入ると、ひたすら天井や壁の絵を見ることになります。どれも圧巻の一言。完全に魅了された時間が過ぎます。最終的に猛烈な首の痛みで長い時間が経ったことに気がつき、この場所を去る決断ができます。
バチカン市国と言えばローマ法王がいるキリスト教の中心的存在になっている場所です。浄土真宗の達脇家の者ではありますが、キリスト教の魅力を手っ取り早く味わうにはここしかないという思いからサン・ピエトロ大聖堂にまず足を運びました。
この大聖堂が凄いというのは当たり前のことなので、この場所で感じた本物ポイントに的を絞って話を深めていきたいと思います。
大聖堂について話をしておきながら、最初に取り上げるのはサン・ピエトロ広場です。広場と大聖堂がセットになっているのはそんなに珍しいことではありません。しかし、他の大聖堂の多くが街中に良くも悪くも馴染んでおり、大聖堂の特別感が犠牲になっているのは否めないのではないでしょうか。先に紹介したフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレも美しい街の中と一緒に写真に写っている感じがしますね。それはそれで悪くはありませんが…。



それに対し、サン・ピエトロ大聖堂とその広場の場合は見事な一体感があり、このバチカン市国がキリスト教の中心地として他に類を見ない特別な存在であることを物語っています。バチカン市国に入ると大聖堂と広場に向かって真っ直ぐに道が伸びています。この道も大聖堂と広場の延長線にあるため、見方によっては街も大聖堂の構造の一部のような調和が感じられます。これだけ大聖堂に従属するような関係をもっていると、大聖堂や広場に足を運ぶ以前から、メインストリートを歩いているとキリスト教の世界へ誘われるような感覚がします。街全体をいかした信仰心を刺激する構成は現地で実際に目にして歩いてみないと分からないものだと思います。メインストリートを大聖堂に向けて一歩一歩近づき、広場に出た時の神聖な領域に足を踏み入れた感覚などは人生のなるべく早い段階で体感しておいて悪くないと思います。
建物と広場、街、これらの要素が究極の構成を生んでいるのは、バチカン市国の明確なコンセプトがあるからこそでしょう。文化多元主義が叫ばれる現代もそれはそれで色々な価値に触れられる面白さがありますが、一つの価値観やコンセプトによって集められた力が巨大なものを作り上げる魅力をバチカン市国では感じることができます。ローマが古代都市として強烈な個性を放っているのと同様で、バチカン市国はキリスト教の中心地として尖に尖った存在感を放っているのです。それはまるでアップルの商品のようにバリエーションではなく、一つの体系によって極上の体験をさせてくれる「シンプルの美」にもつながると思います。バチカン市国がニューヨークなどのようにバリエーション豊かな娯楽施設をわざわざ作らずとも観光客で賑わっているのはバチカン市国の魅力が特別であるがゆえでしょう。日本では町興しのためにゆるキャラが盛んにつくられてきましたが、そういうキャラで国をアピールする必要性も皆無です。個人的にはバチカンのゆるキャラがあれば見てみたいですが…。本物の中の本物は、他の場所では絶対に味わえない価値を強烈に体験させてくれるために、自然とそれに魅了された観光客が集まり、その体験からリピーターになることでしょう。明確なコンセプトや売りになるものがあれば、あとはひたすらそれらを質の高い状態で生かすだけ。いかに本物が大切であるか考えさせられます。
今の時代、一つのことに特化することはあまりお勧めされません。変化の激しい時代でモノを言うのは柔軟性と言われています。しかし、それは新しく生み出されたこともすぐに他者が模倣をして、特別なものでなくなる分野に関してのことであり、遺産として後世に残していくべきものまで柔軟に変化してしまったら、もはや遺産でなくなります。「大聖堂の扉がバリアフリー化して自動扉としてリニューアルされました!内部も最新の設備で大変ご利用しやすくなっております。お気軽にどうぞ!」と、どこかの商業施設のようになってしまっては、大聖堂の価値が揺らぎます。もちろん身体に不自由がある人が利用しやすい状態にすることは大切ですが、遺産を直接変形させてしまうと得られる体験価値が台無しです。身体が不自由な人でも利用ができる配慮は少々原始的な方法となっても仕方がないでしょう。遺産は元の姿ゆえの価値であり、本物に触れる体験が特別なのです。
そんな他の場所では味わえない体験は是非自分のペースでゆっくりと味わって欲しいものです。私は1週間弱の滞在で3回サン・ピエトロ広場を訪れました。1回目は大聖堂の内部を見るため、2回目はクリスマスイブ、3回目はローマを去る前日です。ここまで足繁く通ってこの広場でいい気分に浸っていると、もはや敬虔なキリスト教徒の仲間入りをしたような感覚にさえなります。というよりも、バチカン急性中毒のような感じで、その日どんな姿を見せてくれるか気になって仕方がなくなるのです。それぐらい尋常ではない体験をさせてくれるのがバチカン市国であり、サン・ピエトロ広場と大聖堂です。

ここからは大聖堂の話に入ります。外観は割とシンプルで上品な美しさです。これに関して言うと、彫刻と彩色で埋め尽くされたフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の外観と反対です。しかし、それゆえに中に入った時の衝撃が大きかったです。内部は一転して装飾の極み。あまりのインプットの多さに五感が暴走してそのまま昇天するところでした。
完全に圧倒されて頭と心が訳のわからない状態になったところでミケランジェロ作のピエタと出会うことができます。ガラス越しで見ることになりますが、むしろこのガラスがあってよかったと思います。このバリアがなかったら本当に昇天する人が続出してしまうのではないでしょうか。この彫刻を見る前は大聖堂の空間全体を感じることがメインになりますが、その感覚が突然この彫刻一点に絞り込まれます。このギャップはあまりに強烈です。キリストの死を悼むマリア。これを見て信仰心が芽生えない人はいないのではないかとさえ思ってしまいます。バチカンの街、広場、大聖堂のスケールと装飾という前置きがあってピエタで洗脳完了です。一人で感動して涙を潤ませていました…。
今の時代は情報に溢れていて、自分の価値観が大切にされていますが、昔は限られた情報の中で、他者と価値観を共有して人々が生活していたことを思うと、バチカンで見た信仰の方程式はかなりの効果があったのではないかと思います。この人の心を動かす構成は本当によく考えられていると思いました。バチカン市国に入ってから目にしたもの、体感したものは全て質の高いものだったのですが、これらの順番が違うと強烈な感動も生まれないのではないかと思います。
今の時代はVRもあって手軽に名所を体験することができますが、これはあくまで手軽でしかないと思います。また、実際に現地に行っていても、真っ直ぐに目的の場所に行ってサッと次の目的地に移動するようなことをしてしまうと、バチカン市国のように壮大なドラマを演出しているものを見逃すことになってしまいかねません。本物はじっくり味わって初めてその良さが分かるものです。
本物は細部へのこだわりが凄いです。上の写真は大聖堂の床にあったマンホールのようなものですが、美しい柄だけだと思ってみていると、なんと下の階が透けて見えていました。ここに透かし彫りをもってくるこだわりには、遊び心さえ感じてしまいました。
仕掛けがたっぷりのサン・ピエトロ大聖堂。「美しかった、豪華だった」だけで終わらせてはいけません。人類の叡智を結集した飛び切りの場所はこの世で最も豊かな体験をさせてくれる場所の一つです。じっくり味わい尽くして、自分の中の価値観が更新され、より良い人生につなげられる体験ができたという確信をもってからこの場所を去りたいものです。
次に紹介するのはバチカン博物館です。この博物館を当時の私はあまりよく調べずに入ってしまいました。大聖堂のついでぐらいに考えていたのです。とんでもなく未熟で非常識な美術教師でした。ここで出会った名作を挙げ始めると日が暮れますので、特に印象的だったものについて話をします。
この博物館は作品との距離がとにかく近いのが魅力です。そして作品と空間が見事に調和しています。ラファエロの間では有名な「アテネの学堂」があり、空間の一部として存在しています。教科書で誰もがみたこのある作品だと思いますが、この作品は部屋の構成として見ることで初めてその存在感を味わうことができます。ラフェエロの間にはトロンプルイユ(騙し絵)で像や模様が描かれていました。ここまで当たり前にトロンプルイユが使われていると、騙されている感覚がなくなってしまいます。まさかこんなイリュージョンをバチカン博物館で味わえるとは思っていませんでした。
この博物館には古代の名作もたくさんあります。有名なラオコーンも色んな角度から見ることができます。このような名作が当たり前のように設置してあるのがバチカン博物館の魅力です。本物にひたすら触れることができる圧倒的な体験を約束してくれるのがバチカン博物館です。よく博物館や美術館で鑑賞するのに疲れた時は流し見してしまうこともありますが、ここはあらゆる場所に流し見を許してくれない本物が待ち構えています。かなり気合を入れて足を運んで欲しいと思います。
次に紹介するのがマチスの作品です。マチスの作品は一部屋丸ごと使われていました。私はバチカンを訪れるより少し前からマチスのフォービスむやカットアウトの魅力に取り憑かれて、それを基にした教材開発をするなどしていました。そんな中でマチスの部屋に足を運び、マチスの真価を体験することができたので、まさに運命の出会いでした。
この部屋で私が見たマチスのカットアウトはとても優しい作品でした。カットアウトならではの色の存在感。形の明快さ。まさに洗練の美でした。多くの絵画は絵画の中で世界を再現するため、絵画が展示されている空間とは別の世界として存在していると言えますが、マチスの作品は絵画の存在自体が空間の価値をつくり出しています。大聖堂に見られるような建物に付随する彫刻や模様の装飾とはまた違います。絵画は見て楽しむのが一般的ですが、カットアウトの存在感は見て楽しむというよりは存在を味わうものではないかと思います。作品を直視しなくとも、傍に存在するだけで十分に味わえる。そんな魅力があると私は思います。それぐらいに明快な形がつくり出す色のパワーは偉大であると、この時に気がつくことできました。しかし、この時の感動体験を実家に帰った時に親に写真を見せながら説明したのですが、「これの何が凄いん?」と一蹴されました…。
最後の作品紹介はルオーです。衝撃度で言うと、ルオーが一番強烈でした。これまたフォービスム(野獣派)の画家として知られるルオーですが、正直なところ美術教師となってからもルオーの作品に関しては魅力を全く理解できていませんでした。まさに野獣が描いた絵のようで高校の世界史でルオーの「聖顔」を知った時は神への冒涜とさえ感じていました。それゆえに野獣派という言葉は覚えやすかったことが私の中でのメリットになっていた程度だったのです。 そんなルオーの作品を前にして、「出たルオー(笑)」と、相変わらず腐った態度で対面しました。そして完全に返り討ちにあいました。マチスの作品を見て、少しウォーミングアップした状態になっていた私は、ルオーの作品がもつ色の存在感、そして絵の内容の掛け算によって生み出された強烈なパワーにまたしても昇天するところでした。ルオーの作品からほとばしる色の刺激はそれまでに見たことがないものでした。どういう色使いになっているか、それは言語化することが不可能と言えるものでした。その色のパワーを身に纏った絵の登場人物はまさに信仰の対象として十分という印象を受けました。この作品もまたガラス張りだったのですが、この作品を生で見てしまうと、刺激にやられて救急車で運ばれる人が続出すること必至です。それを防ぐためなら仕方がないことでしょう。
この礼拝堂の天井や壁面にはミケランジェロが気の遠くなるような時間をかけて絵を描きました。静かな礼拝堂ですが、そこには彼の強烈な情熱が充満しています。人間の可能性と神の存在への意識について新しい感覚をもつことができた体験でした。
最後にバチカン市国でのクリスマスについてお話しして今回の記事を終えたいと思います。私がクリスマスシーズンに合わせてローマに行ったのは、本場のクリスマスがどのようなものであるか体験したかったためです。行く前は、日本以上の盛り上がりで爆竹が鳴りまくるみたいなイメージで、ちょっと怖いもの見たさで行きました。
しかし、クリスマスのバチカンとローマはイメージと真逆。店は閉まり、食事をする場所を見つけるのも一苦労。これはどういうことだと思い、サン・ピエトロ広場に向かうと、広場の中心に人々が集まり静かに時を過ごしていました。
これが本場のクリスマスなのかと、愕然としました。日本がクリスマスを盛大なイベントにして商売や馬鹿騒ぎするために利用しているということに気がつきました。神聖な夜は静かに愛と平和、感謝の気持ちに浸る。こんな本物と出会えたのでした。
最後まで読んでくださってありがとうございました。今回は「本物と出会えるバチカン市国」をテーマに記事を書きました。バチカン市国は世界一小さな国ですが、そこにあるものは本物ばかり。そこでの時間はとても濃密なものになります。そして価値観が大きく揺さぶられる体験に溢れています。そんなローマ、バチカン市国に是非一人で行ってみて欲しいと思います。きっと帰国してから違った人生観で生活することができるようになると思います。
次回はローマ特集最終回。ローマの世界都市としての魅力をお伝えします。よろしければ、また見てください!
最後まで読んでくださってありがとうございました。今回は「本物と出会えるバチカン市国」をテーマに記事を書きました。バチカン市国は世界一小さな国ですが、そこにあるものは本物ばかり。そこでの時間はとても濃密なものになります。そして価値観が大きく揺さぶられる体験に溢れています。そんなローマ、バチカン市国に是非一人で行ってみて欲しいと思います。きっと帰国してから違った人生観で生活することができるようになると思います。
次回はローマ特集最終回。ローマの世界都市としての魅力をお伝えします。よろしければ、また見てください!
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