学級通信を書く価値
今回は私が5年間毎週出し続けている「学級通信」についてお話しします。皆さんは学級通信の記憶はあるでしょうか?私が中学校の時の学級通信はほぼ記憶に残っていません。あったのは間違い無いのですが…残念ながら、何が書かれていたかはほぼ記憶から消えてしまっています。学級通信を書くことは当然のことながらものすごい手間がかかります。そんなこともあまり考えずに私は中学校時代を送っていたのかもしれませんね。学級通信には担任の先生の熱い想いが入っているものなので、もし今読み返せるのであれば読み返したいものです。今度実家に帰ったときに、とりあえずダメ元で当時の学級通信が残っているか確認してみようと思います。
私自身、学級通信を書き続けることでクラスが劇的に良くなるとは思っていませんし、毎週出すからといって、子どもたちが内容をよく読んでくれているとも思いません。よく帰りの会の後教室を整理していると教室に落ちているのも見ます。こういうのを見ると少し辛いですが、だからと言って学級通信を発行することをやめようと思ったことはこの5年間で一度もありませんでした。なぜそれほどまでにこだわりをもって発行し続けることが出来ているかというと、それをすることに単純に価値を感じているからです。この記事を読んでいる人の中に学校で学級担任をされている方は少ないかもしれませんが、今回の文章を読み進めていくと、学級担任とは無縁の方にも少しは価値を感じていただける内容になると私は考えていますので、少し長い文章に今回もなるかもしれませんが、お付き合いいただけたら幸いです。
私が学級通信を書き続ける理由を今回は4つ紹介します。それは「良いところ探しが前提になる」「感覚を言語化して他のことに繋げられるようになる」「大切なことを考えるきっかけづくりになる」「最後は達成感で報われる」という内容です。これらの理由で書き続けているわけですが、結論から言うと、学級通信を書き続けると子どもへの愛情は明確に深くなり、大切なことを伝える自分自身の言語力を伸ばしたり、考えを整理することができるようになります。そして、その中で自分自身のメタ認知が促されるため、視野を広げることができます。要は子どもたちのためになること以上に、自分自身の成長を実感するためのツールとして大きな恵みをもたらしてくれるということです。まるでエッセイストのような日々となりますが、それが価値を生んでくれると私は思います。というわけで、理由にあげた内容を順番に説明していきます。
良いところ探しが前提となる
毎週学級通信を書く一番のメリットはこれだと私は確信しています。毎週発行するためにはネタが必要です。ただの1週間の取り組みを報告しただけでは子どもにも保護者にもまともに読んでもらえません。学級通信には子どもたちの成長した姿が何かしらの形で入らなければいけないと考えて私は書いています。そのようなことを確実に毎週届けるためには、子どもたちの良いところ探しをすることが日々の教育活動での前提になります。
学級通信には1週間の活動における、子どもたちの頑張りを記載するのがメインですが、今週のGOOD JOBというコーナーがあって、そこに日直が帰りの会で発表したクラスの人の頑張りや、私が発見したクラスの中での頑張りについて載せています。この部分では該当する生徒の名前をアルファベットのイニシャルで載せていますが、何となく誰のことかは分かるので、「これ誰々じゃないん?」みたいな会話が起きます。みんな誰が褒められているのか興味津々なので、この部分しか見ない生徒も割と多いのが嬉しいやら悲しいやらという感じですが、最低限、興味はもってくれるので最低限の価値は提供できていると思います。
しかし、GOOD JOBのコーナーだけではA4両面、約3000字分の量を埋めることは不可能です。このコーナーだけではせいぜい400字分しかないので、1週間の活動の中で他の大部分を埋める内容を考えなければいけません。それだけの文章をクラスに関係することで書くためには、日々の細かな気づきが不可欠になります。そして、その気づきがただの粗探しのようになってしまうと、誰も読みたいとは思ってくれないでしょう。読んでもらうためには時として厳しい内容を書くこともありますが、大部分をポジティブな内容にする必要があります。
しかし、何気なく生活していると、他人の良いところやみんなが頑張っていることを書こうとしても、パッと思い浮かべるのは簡単なことではありません。そもそも自分自身の頑張ったことや達成したことを思い浮かべるのさえ、人間はそれほど得意ではないと思います。例えば日記ぐらいなら何とか振り返ることができても、これが1週間に一回しか書かないような状態だと、もはや至難の技です。そんな難しいことを毎週毎週しなければいけないとしたら続くはずがありませんよね。学級通信も同じです。
それゆえに学級通信はちょっとした空き時間を見つけては、すぐにメモするように書いています。学級通信を発行するのは金曜日ですが、学級通信の印刷が済んだその日には次週の学級通信に向けて良いとこ探しをして書き始めます。そうすることでクラスであったポジティブなことを忘れずに書き続けることが可能になります。このような作業は最初は大変だったような気がします(もう昔のことなので感覚を忘れてしまいました…)が、やっているうちに常に良いところ探しをするマインドセットが強力に形成されるので、洗顔をするようなレベルになります。やらなくても別に死ぬ(免職になる)わけではありませんが、やらないと何か気持ち悪い。そんな感じになるのです。
このようなマインドセットが形成されたら基本的にはもう楽勝で毎週学級通信を更新することができるようになります。それどころか、A4両面では写真や子どもたちの感想文を入れた場合ものすごく容量不足とさえ感じるようになります。そうなると、内容の精選が必要になり、質が上がっていきます。今回この記事を書くにあたって昔の学級通信を少し読みましたが、内容が…薄い(笑)。当時は毎週出すのに必死で質を高める余裕がなかったことが実感できました。
良いことを発見したらすぐに書く。そのようなマインドセットをさらに強力にする方法があります。それは先1週間を見通してメモをすることです。学校には雑紙が溢れています。雑紙にマインドマップで先1週間に取り組むこと(学活や総合、行事やそれに向けた取り組みなど)をメモしたり、イメージを膨らませておき、この段階で学級通信の小見出しとそれに続く内容も少し書き始めてしまいます。そうすると、子どもたちの活動を冷静に観察しながらポジティブな要素をキャッチすることが容易になります。
良いところ探しが前提の教育が続けられる状態になると、当然、学級通信を書くこと自体が自分の幸福度を高めてくれることになります。これは結局のところ、教科に関することにも共通して言えることで、授業をする前に、取り組みの内容や、子どもたちの成長する姿が期待できるかを指導案や年間指導計画でイメージを膨らませた上で、良いところ探しを前提に子どもたちの活動を見取っていくと、いくらでも価値ある気づきができるようになります。美術を教える立場でありながら、むしろ毎時間子どもたちから学ばさせてもらうことの方が圧倒的に多くなり、それが自分自身の価値観の拡大に大変役立っています。どんなことにも良いところ探しを前提にして関わりをもてるようにしたいものです。
感覚を言語化して他のことに繋げられるようになる
1日の出来事は意外に覚えていないものです。いくら良いことがたくさんあっても、それを具体的に思い出そうとするとすぐには浮かべられないのが人間です。実際に日記をつけようとすると、何について書いて良いか分からないという感覚になったことがある人も多いのではないでしょうか。書く内容がないからと言って、「朝何時に起きて朝ごはんにパンを食べて…昼寝をしてダラダラ過ごした…」というような内容の日記になったらどうなるか。価値が乏しいので即終了すると思います。それゆえに価値ある内容を書こうとしても、そこが難しい。色々1日の中には価値ある体験もあったはずですが、なかなか書こうとしても書けない。それぐらいに人間は感覚を言語化することが苦手です。
私自身も大学時代に英語の授業で宿題として毎日日記を英語でノート1ページ分書くという課題がありましたが、まともな内容を継続して書けませんでした。それは英語だからというわけではなく、単純に書くべきものを思い浮かべることができなかったことに拠ります。どうしても困った私はノートのサイズをA4からA5に変えたぐらいです。当然これにはアメリカ人の先生でしたが「Unfair,ズルイ!」と言われましたが、一応の承諾を得て何とか単位を取ることもできました。それぐらい私は日記を書くことが苦手だったと言えます。それが今では毎日日記をつけ、毎週学級通信、毎月部活動通信を発行し、毎週ブログを更新するまでになりました。こんな今の私を大学時代の私では想像することはできなかったでしょうし、そうすることにおそらく価値さえ見出すことも困難だったと思います。
この「感覚の言語化」をすることができるかどうかが、成長という点で大きな違いになります。しかも、その言語化がただの愚痴であるか、価値ある発見をまとめたものであるかでさらに大きな違いになるのは想像に難くないことでしょう。価値ある発見は先に述べた良いところ探しを前提にすることでいくらでもできるのですが、残念ながら、心ときめく発見も何かしらの形で言語化しないと瞬く間にどこか遠くへ行ってしまいます。逆に「いつでも同じことで心ときめかせたい!純真なままでいたいからあえて言語化しない!」という考え方もあるかもしれませんが、残念なことに価値ある発見は心の片隅に根強く残るもので、魅力的なものを発見して、一瞬「ワオ!」と思って心ときめいても、次の瞬間には「前にも見たことあるな…」「なんや、これか…」となるので、最初の出会いのような感動はもう生まれません。私たちは新しい出会いがあるからこそ大いに心をときめかすことができると思います。
感覚を言語化することによって、私たちは次のステージに立つ準備ができるようになります。私たちは言語によってイメージを膨らますことができます。よく感性と言語のような理性に関することは別物として扱われますが、言語によって導かれる感性もかなりあります。実際に和歌などを味わえば数十の音がとんでもない世界観を表すことにもなります。つまり、価値ある言語化は感性のレベルを大きく広げてくれるわけです。それゆえに、この言語化を怠ると、なかなか新しい感性との出会いも難しくなります。毎度毎度同じことを繰り返し、成長のスピードが鈍ります。
イメージを膨らませる価値ある言語化と言いましたが、これは言語化することによってそれまで関連性を考えたこともないようなこととの繋がりが見えてくるということです。どんな物事も深めていくと、どこかでそれらの関連性が見つかるということを古代から哲学者が様々な角度から主張してきました。それらは科学的には関係性がなかったとしても、「考えようによっては無しではない」と思わされるものも多いです。物事を深めて考えるために言語化は必須です。
この言語化を学級通信を通して行うと、教員としての必要な気づきが爆発的に多くなります。どうすれば子どもたちがよりよく学校生活を送ったり、学習に取り組んだり、将来のことについて考えたりすることができるようになるか、日々の活動での成長や課題から発展して考えることができるようになります。このようなことを考えるのは他ならぬ自分自身なので、学級通信でアウトプットすることによって、強力に自分のものとして身につけ成長につなげることができます。その成長はまた新たな価値ある発見につながり、教員としてだけではなく、人間として自分を生かした人生を送れるようになると思います。
そのように考えると、もう学級通信を書かない理由なんてなくなります。書かなければ損をしていると私は率直に思います。私たち教員は子どもが育つ姿を楽しむ仕事をしながら、それを基に学級通信を書くという自己投資の時間を費やしているにもかかわらず、給料までいただけるという何ともありがたい日々を送ることができるのです。ただ、このような最高の働き方はサラリーマン教員には全く理解してもらえません。彼らからは「よく頑張るねぇ」「あまり無理をしすぎないように」なんていう労いの言葉をよく頂きますが、私は「ありがとうございます!最高にエンジョイしているので大丈夫です!!」と返答します。そしていつも苦笑いされます(笑)。実際に何も苦労しているわけではないことは強がりなどではなく、この長い文章を読まれている皆さんならお分かりだと思います(笑)。自分の可能性が広がり、成長できるゲームを一人でも多くの教員がプレイできるようになればと思い、私はもう少し学校で色々と試してみたいと思います。そのためにも言語化を続けていきたいものです。
大切なこと考えるきっかけづくりになる
学級通信の内容は1週間の良かったことをただ書くだけではもったいないです。先に述べたように物事は言語化して深めると、必ず他の物事に繋がります。私はどうせ繋げるなら、大切なことを考えるきっかけになる物事になるべく繋げて文章を書くようにしています。
例えば、良いことをしていた人がいて「〇〇さんは〇〇なことをしていました。そのおかげで大変助かりました!本当にありがたかったです!!こんな素敵な活動が増えると良いですね!」みたいな内容でも別に問題は無いのですが、これでは先生から褒めて欲しくて良い行いをしようとする生徒が増えるだけで、そんなことどうでも良いと考える冷めた生徒には何も言葉が刺さりません。しかし、例えばこれならどうでしょう。
「〇〇くんは魚料理の給食が残っているのを発見すると「もったいない!」と言って食べてくれました。後で彼の行いを褒めたときに「魚に失礼だと思ったし、食べた分部活動で頑張って動こうと思ったので」と話をしてくれました。皆さんは魚がどのようにして運ばれてきたか考えたことはありますか?給食を作る人、漁師さん、そしてもっと生きたかったけど、捕獲されて命を失った魚。皆さんは誰かのために働いたり、人の都合で大量に命を失う魚や家畜、そして家畜に使われる食料を作る外国の労働者の気持ちを考えたことがありますか。食について深く考えると、皆さんが大変恵まれた存在であり、食事を大切にして自分の人生をより良いものにできる人になってもらえたら嬉しいです」
と、このように書くと、少しは冷めた人でも「食事と命?外国の労働者?より良い人生?」と考えるかもしれません。もしかしたら大袈裟と思われるかもしれませんが、そのように考えられても構いません。少しでも意識に登るような「問い」「サプライズ」を仕掛けることで大切なことを考えるきっかけづくりになるようにしています。
このように考えることは、もちろん授業でも役に立つ問いを投げかける力にも繋がります。要は価値あるイシューを提供できる思考が身につくということです。この経験がいかに私自身にとっても大切なことであるかは言うまでもありません。今の私があるのは学級通信で毎週大切なことを考えるきっかけづくりをしてきたからこそだと確信していますし、このブログを通してさらに自分の可能性を広げていきたいと考えています。
最後は達成感で報われる
毎週学級通信を出していても、残念ながら粗末に扱われることは多々あります。それに対して、私自身何もショックを受けない鋼のメンタルをもちたいものですが、残念ながらまだその悟りの域には達していません。でも感覚的にはドラクエ3のレベル16ぐらいには来ているような感覚です。あとメタルスライムを10体ぐらい倒せば悟りをひらいた賢者になれそうです。ここ数年、良いフォールドに身を置いて修行しているのでしょうか。一気にその手応えが掴めるようになってきました。手のかかる学級を担当すると1年間で稼げる経験値はかなり大きくなります。本当に有難し。これからも感謝していきたいものです。
いつかは悟りをひらくにしても、それまでは学級通信を発行することから生まれる苦しさや怒りを少々感じる時間は続きます。これは生徒の行動によるものなので、自分の力だけでは解決できないのが厄介なところです。しかし、そうではあっても、必ず学級通信を出し続けて良かったと思える日がやってきます。それは1年間の最後に出す学級通信です。
1年を締めくくる学級通信最終号をつくるとき、自分の全精力を振り絞って書くことになります。そのときに1年間の思い出が蘇り、楽しんだことや苦しんだこと、反省したことや達成できたことを振り返ることができます。そんな思い出に浸りながら感謝の気持ちを子どもたちや保護者に向けて書いているとき、完全に幸せな気持ちに仕上がってしまいます。この1年間の思い出のクオリティーはまさに学級通信を描き続けたからこそ味わえるものです。何となくの感覚で1年間を過ごしてしまうと、自分で思い出せることは非常に限定的になるものです。1年間の大事な締めくくりになるはずが、自分の思うように締めくくられないなんて担任として大損している感じだと思います。
振り返ればたくさんの良い思い出や子どもたちの成長を実感できます。学級通信を読み返すと、「1学期はこんなトラブルが頻発していたなぁ」となることもあります。そういったことが実感できると、1年間の成長を実感することができますし、最後にその成長を子どもたちがメタ認知できる内容にしたいと考えることにもなります。
私のつくる最後の学級通信は毎回写真多めで、文章量が普段よりも少なめになります。しかし、それゆえに言葉を選び抜いて自分にできるベストな文章に仕上げることにもなります。しかし、これは1・2年生に関してのことで、卒業する3年生の場合は奮発して月毎の思い出を写真付きでまとめたものと最後のページに美術教師らしく個人の似顔絵とメッセージをかいた文集のような学級通信拡大版を一人ひとりに通知表とセットで渡すようにします。ここまですると、もうやり過ぎ感が出るのですが、そこまで真剣にやる価値があると信じて私はやります。絶対に子どもたちが感動するものを渡して、彼らが感動体験の大切さを感じ、将来誰かを感動させるために自分を生かせる人になってほしいがために最後に担任としてできることをぶつけます。これは子どもたちのためにやっていますが、結局自分自身の成長に大きくつながります。最後には必ずやってきて良かったと思えるコースになっているのが「毎週発行する学級通信」というものなのです。
まとめ
今回は学級通信を書く価値ということで、学級通信を書き続ける理由を4つ紹介しました。それは「良いところ探しが前提になる」「感覚を言語化して他のことに繋げられるようにする」「大切なことを考えるきっかけづくり」「最後は達成感で報われる」ということで、最終的に学級通信を書く自分自身の成長につながったり、子どもたちと真剣に向き合う中で彼らの成長をより実感して幸せな気持ちになったりと、どれも、自分自身の人生をより豊かにしていくことに繋がるものばかりということでした。
教員をしていない人や教員でも学級担任をしていない人にとって学級通信とは基本的には縁がないものかもしれませんが、日々得られる感覚を言語化し、それを他者のために生かすという営みは誰にでも大なり小なり価値をもつことだと私は思います。まずは日記からでも良いので、大切なことを言語化して深めることによって、これまでよりも人生が充実したものになったり、幸せを実感できるようになったりしたという人が少しでも増えていって欲しいと願っています。
今回も最後まで読んで下さりありがとうございました。これからも言語化する活動に励んでいきたいと思います。来週は「散歩でインスピレーション」をテーマに記事を書きます。齢30歳を越してからランニングとウォーキングの魅力に気がついた私はこれらに取り組む中で様々なインスピレーションを得てきました。その魅力について極力コンパクトにお話しするつもりなので、良かったらまた読んで下さい。それではまた来週!
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