今回は美術に関わる全ての人に読んで欲しい本の紹介をします。この本からは美術を学ぶ価値や、生きていく上で非常に重要な視点をもてるようになるきっかけを掴むことができると思います。その本というのは、「新学習指導要領」と言いたいところですが、これはマニアック過ぎて美術を学び始める中学生には壮大すぎる内容なので今回は紹介を控えておきます。冗談はここまでにしておき、中学生を含めて美術に関わる全ての人に読んで欲しいのが「13歳からのアート思考」(末永幸歩著)という本です。
この本は美術教師である末永先生が「自分だけのものの見方」ができる人がこれからの時代で活躍できる人間になるということで、アーティストのように考えてアートと関わることの重要性を説明しています。美術教育がスタートするのは13歳の中学1年生からということで、この本は中学1年生でも読めるような内容になっていますが、大人にとっても目から鱗な有益な情報が詰まった一冊となっています。
この本の内容を簡単に説明すると、アートは植物のように例えることができ、花(作品)は単なる結果であり、大事なのは植物の根の部分(アート思考のプロセス)ということで、この根の部分について知ることが全ての人にとって必要だということです。
そして主に6つの作品を取り上げて多角的にその魅力について説明していきます。6つの作品というのが、
1.「緑のすじのあるマティス夫人の肖像」ヘンリー・マティス 1905年
2.「アヴィニョンの娘たち」パブロ・ピカソ 1907年
3.「コンポジションⅦ」ワシリー・カンディンスキー 1913年
4.「泉」マルセル・デュシャン 1917年
5.「ナンバー1A」ジャクソン・ポロック 1948年
6.「ブリロ・ボックス」アンディー・ウォーホル 1964年
というラインアップです。美術史をかじったことがある人なら、割と有名どころばかりなので、思い浮かぶ作品もあるのではないかと思います。しかし、彼らの作品の魅力についてはどうでしょうか?
美術の授業で名前や作品は覚えたけど、魅力は分からない。これまで私が会ってきた大人はそういう人が多いように感じます。例えば20世紀最大の画家ピカソ。彼の名前を知らない大人はいないでしょうし、まだ中学校に入りたてほやほやで美術を学んでいないはずの1年生でさえ大抵は知っています。しかし、ピカソに対する認識は大人も子どもも一様に「グチャグチャの絵」「幼稚園児が描いたみたい」「汚い」「下手」「訳がわからない」という感じで、たまに「面白い絵」というのが出てくる程度です。これが日本での一般的な20世紀最大の画家の評価と思うと辛いですね(笑)。ちなみに私自身も大学4回生になるまではピカソのことを「上手に描こうと思ったら描けるが、奇抜な絵で注目を集めようとした」ぐらいにしか考えていませんでした。深く反省しています(苦笑)。しかし、それゆえに、ピカソの魅力を知ったときの衝撃が凄かったのです。なので、ピカソを始めとした上の画家について「魅力?そんなもん知ったことか!」という人ほど読んでほしいのです。
結局、ピカソほど有名な画家についても魅力が分からない人が多いのは家庭や学校での教育に原因があると言わざるを得ません。美術教育に携わっていて思うのは、美術教員でさえピカソの魅力を認識していない人が実はたくさんいるということです。個人的な好き嫌いのレベルならまだ良いのですが、多様な表現を教える立場としてピカソを理解していないと、子どもたちの表現を狭めてしまうことになります。ピカソの表現は現代アートとしてはむしろ分かりやすい部類に入りますし、ピカソが抽象的な表現という人もいますが、彼は具象表現の究極に挑戦した画家であって、抽象画家ではありません。つまり、ピカソの具象画で分からないと言ってしまうと、カンディンスキーやポロックの抽象画、さらにこの本では出てきませんでしたが、マレーヴィッチやフランク・ステラといった純粋な色と形に絵画を還元した表現はもはや「美術」ではないという認識になりかねません。
今回は深く触れませんが、そもそも「美術」という言葉の概念自体に限界があり、美術関係者の多くは美術という言葉を形式的に使っているだけで、最近は「アート」という言葉を用いるようになっています。アートは美術よりもより広い概念をもっており、汎用性があります。だからこそ「アート思考」にもつながるのです。
そんなアート思考について考えさせてくれるのが本書です。汎用性のあるアート思考は作品を作るためだけでなく、アートを味わったり、世の中の様々な事象を感じ取ってみたり、さらには社会に創造性をもって働きかけたり、そのように無限の広がりを私たちに提供してくれます。
「アート思考」は、私が美術を教えていて最も大切にしていることなのでこの本のタイトルに魅せられたというのがあります。美術という固定観念に染められたラベルは美術を学習する前の子どもたちにさえも浸透している厄介な状態です。しかし、だからこそ3年間という義務教育での美術の中で少しでも多くの生徒が「アート」の魅力について知ってもらえたらと思って指導をしています。本書が世に送り出されたことは、美術教員としてとても励みになることです。そして、こうして記事を書いてより多くの人に価値ある情報をシェアする。これも美術教師として大切なことだと思い、今回おすすめの本ということで紹介させていただきました。アートに興味がこれまでなかったという人にとっても、非常に魅力的な内容だと思いますので、是非読んでみてください。
細かいことは本書で実際に読んで欲しいのですが、先に紹介した6つの作品については私も授業で扱ってきた内容なのので簡単にですが私なりに魅力を短くまとめて紹介させていただきます。末永先生とは少し違った観点かもしれませんが、それもまた良いと思います。参考までに目を通していただけたらと思います。
1.「緑のすじのあるマティス夫人の肖像」
ヘンリー・マティス 1905年
早速強烈な印象の作品ですね(笑)。「なんで緑の線が顔の中央に入ってんねん!」となりますが、では逆に緑の線を描いてはいけないのでしょうか?
緑の線が入っていて不自然に感じるのは、私たちが普段見ている世界をそのまま絵画に求めるからでしょう。マチスはルネサンス以降支配してきた写実的描写による色彩表現の限界から色彩を解放し、感覚に訴えかける色彩表現を目指しました。
色には感情があります。暖色や寒色といったものは良い例ですが、色の組み合わせ方によっても感情に働きかける表現を生み出します。このようなことは現代では割と一般的かもしれませんが、当時は自然の模倣のために色彩が利用されていたため、マチスの表現はかなり異質なものとして扱われ、彼を中心とした感覚に訴えかける色彩表現をする画家たちのことを「野獣派」と美術批評家たちは揶揄しました。まだ印象派の表現さえ荒くて雑と言われていたような時代ですから、彼らの表現がいかに尖ったものであったか想像がつきます。
マチスのこの作品からは、感覚を刺激するためにはモチーフの持つ内面的な色としての可能性を引き出すことの重要性を考えさせてくれます。この絵は顔の中央の緑の線が印象的ですが、この中心を境に右側と左側で色のテーマが違うのがわかると思います。ここにも感覚を刺激する色使いの工夫が見て取れます。このような色彩の工夫によって画面全体から強烈な印象を放っています。この強烈な感覚を刺激する色彩表現によって、写真とは比較できない美術の独立した価値を生み出すことになりました。
マチスは晩年病気がきっかけでカット・アウト(切り紙絵)を始めます。これによって色をさらに純粋に生かす表現を可能にしました。このような色の表現可能性の追求はデザイン分野にも多大な影響を与えています。
2.「アヴィニョンの娘たち」パブロ・ピカソ 1907年
ピカソはまだ亡くなってから半世紀も経っていないので著作権が有効なため作品を載せることができませんが、みんな絵は見たことがあると思うので絵がなくても大丈夫でしょう.
マチスが色彩の革命家であったとするなら、ピカソは形の革命家です。彼の変わった表現はキュビスム(立体派)というもので、これは私たちが普段ものを見ているシステムとは全く違った概念で対象を捉えています。
私たちの視覚はカメラがフィルムに像を捉えて写真を撮るのと同じように像を網膜に写して
形を認識しています。写実的な絵画もこれと同様のシステムで像を写しているわけですが、キュビスムという表現はこの前提が全く異なります。キュビスムでは描く対象を多視点的に捉えてそれを一つの画面上に再構築するという方法をとっています。これによってどうなるか。人の体は複雑骨折したような見え方になります。しかし、これは対象を多視点で捉えて、その対象の要素を盛り込んだだけであり、決して間違ったものを描いているわけではありません。むしろ、特徴的な部分がたまたま角度的に見えなかったからといって、それを表現しなかったら、その対象の本質を隠した状態になってしまいます。本質に迫る表現を考えたときにピカソの考えたキュビスムという表現、考え方はとても重要な意味があると言えます。
「アヴィニョンの娘たち」は美しい若い女性の姿がバラバラに切り貼りされた状態ではありますが、対象の本質をより強烈に表す挑戦的な作品です。アフリカのプリミティブアートからの影響も見られ、女性の顔に仮面が被せられ、不思議な雰囲気をつくり出しています。美術が「ただ優雅で美しい」ものだけでなく、見る人の興味を引き出して対話の余地をつくる。そんな遊び心がピカソの作品にはあると思います。
キュビスムは特徴的な形を捉え、モチーフの本質を強烈に引き出します。「アヴィニョンの娘たち」の後に登場したピカソの代表作「泣く女」からは泣くという行為を、「ゲルニカ」からは恐怖と戦争のおぞましさを写真では到底味わえない次元で私たちに味わわせてくれます。絵画でなければできない表現、そして鑑賞体験。そういったものをピカソは絵画の新たな可能性として実現していきました。この形の革命と本質に迫るアート思考がこの後の現代アートに大きな影響を与えることになりました。だからこそ、ピカソは20世紀最大の画家として君臨するのだと思います。
ちなみに私はマチスやピカソの表現を参考にした「感情絵画」というものを教材にしています。色の革命家マチスと形の革命家ピカソ、彼らの表現を参考にするだけで実に多様な表現が生まれます。その多様性をお互いに称賛しあい、共に学んでいく。学校における美術教育はとても大切な時間です。これからも教材研究に励んで、創造性あふれる時間を子どもたちと過ごしていきたいと思います。
3.「コンポジションⅦ」
ワシリー・カンディンスキー 1913年
この作品には具体的な形がありません.あるのは色と模様。しかし、雰囲気はあります。この絵画は音楽の雰囲気をベースにして描かれました。
音楽は形のない芸術です。カンディンスキーは形はなくても確かな芸術性をもっている音楽に絵画の可能性を発見したのです。この画面からは激しさや優雅さを感じることができます。音楽の激しさや優雅さはそのまま色と模様に置き換えられます。もともと具体的な形のない音楽なら絵画も具象化する必要がありません。むしろ感覚的な要素をそのまま色と形で表現した方が自然と言えます。そうして表現を純粋な状態で表したのがカンディンスキーの表現であり、抽象表現の誕生でした。これによって絵画が形から解放され、さらに絵画は独立した存在になっていきます。あのピカソでさえモチーフを描く具象の呪縛に囚われ続けていたことを考えると、このカンディンスキーという画家は偉大です。ちなみに彼は30歳になってから画家を志すという異色のキャリアを持っています。彼は画家としてだけでなく、美術理論家としても有名で「抽象芸術論 芸術における精神的なもの」という代表作があり、美術がこの時代には技術的なものというより、精神的な部分の要素が強くなっていたということがうかがえます。もう100年ぐらい前に美術はそういう時代に入っていたのです。
私はこの抽象表現を中学1年生の1学期に取り組みます。これによってイメージを色と形だけで表現できることや、作者の個性が抽出されるということを学習してもらうようにしています。このような表現が美術で許されると知れば、多くの生徒の美術に対する固定観念を少しは払拭できると考えています。
4.「泉」マルセル・デュシャン 1917年
これはただの男性用小便器なので写真には載せません(笑)
しかし、これが芸術家のサイン入りで展覧会に出品されたと言うのですから強烈ですね。この作品は20世紀のアート作品でアート界に最も影響を与えた作品として評価を受けている(偉大な?)作品です。
デュシャンは「芸術家が芸術品として出品したものならどんなものでも芸術作品として扱われるか」をこの作品で美術の世界に問題提起したのです。これによって「芸術とは何か?」その存在自体についてアーティストたちは考えることになり、アートの世界に地殻変動が起きることになります。そのような世界を変えてしまうようなパワーを持った作品が「泉」であり、既製品の小便器だったのです。当時この作品は出品拒否され、後に作品自体もどこかへ行ってしまいました。現存するのはオリジナルとは別の便器です。あまりに進んだ考えは社会からは拒否され、やがて時代が追いつく、そんなことを象徴するアート界の大事件でした。
しかし、この「泉」作品を定義する上で「美術」という言葉はあまりにも不適切でしょう。百歩譲って便器の形が好きで好きでたまらない人がいて、それが「美的」な造形を持っているとしても、既製品を使っている時点で「美を生み出す術」ではありません。美術は英語でファイン・アート(技能の優れた芸術)ですが、これもやはり言葉の限界を感じますね。それゆえに「アート」という、より汎用性の高い言葉が好まれるようになるわけです。
デュシャンの「泉」は視覚的なアートから、コンセプチュアルなアートへの転換点となりました。また、この転換点はアートという概念の限界に向かうスタートラインにもなりました。それだけ大きなインパクトがこれまた100年以上前に起きていたのです。これを考えると、日本の美術教育でアートという概念が蔑ろにされてきた事実について考えさせられてしまいます。
5.「ナンバー1A」ジャクソン・ポロック 1948年
これはただの落書きです。
そういって間違いではないと思います。これはアクションペインティングという体の動きを使ってペンキなどを画面にぶち撒け、行為をそのまま絵に写しとるというものです。この作品からは生命感がほとばしり、人間の姿が生の状態で刻まれたような印象を受けます。
この絵を見て病的な雰囲気を感じる人もいることでしょう。実際にポロックは精神病を患っており、治療の中でこの表現と出会いました。
私たちは心の奥底に本能的なもう一人の「生」の自分がいます。これを色や形で再現しようとしても、そもそも見えないものを形にしようとしているので、ただの欺瞞に溢れた作品にしかなりません。
そこで、ポロックは「生」の自分自身を写すため、行為をそのまま絵画にしました。そこには描くべき対象や理性で考えた色といった自分を表す上での二次的な表現方法はありません。何かを表現しようとして自分の奥底にあるものを封印するのではなく、自分の奥底にあるものを表現するために描く対象を何も設定しない表現方法を用いる、それがアクションペインティングだったということです。この表現によってポロックは抽象表現主義という新しい表現を開拓しました。
子どもの殴り書きも実は大切な創造活動として捉えても良いのかもしれませんね。私は小さいころにペンで殴り書きをしていて紙が破けるまで描き殴っていました。これは一体どんな「生」の姿だったのでしょうね(笑)
6.「ブリロ・ボックス」
アンディー・ウォーホル 1964年
最後の作品は既製品を忠実に再現した作品です。これも著作権の関係で写真を載せられませんが分かりやすく言うとそこら辺のスーパーで売っている人気商品の箱をそのまま造形的にコピーした作品です。
これのどこがアートになるのか。もしこれがアートであるならスーパーは美術館になってしまいますね。ウォーホルはとうとうアートという格式のある概念にピリオドを打つ「創造的活動」を始めたのです。この「ブリロ・ボックス」の登場によって、人々は身の回りの日常的なものへの見方さえも変わってしまうようになったのです。もはやこうなると、アートというのは「文化的なゲームによる新しい世界観の創造」みたいなものになってしまうわけで、いわゆる「作品」ありきではなくなってしまいます。
最後に
長い歴史で美術は常に「モノ」としての価値を持ち続けてきました。しかし、デュシャンの「泉」の登場によって、美術が美術でなくなり、ウォーホルの登場によって「モノ」だけでなく「コト」もアートとして考えられるようになりました。ここまでくると、次はどうなるのか全くもって予想がつきません。ただ一つ言えることは、これまでの美術史で登場した全ての作品がアートとして存在し、個人個人が好きなようにアートと関わっていく権利があるということです。どんなアートを好もうが、人の勝手です。作品がもしも人権に触れるようなことや、触法行為で許されないことであればそもそも一瞬で淘汰されることを考えると、この世に存在するアート全てに市民権があるわけです。そしてそんなアートは多様な形で私たちの生活や人生に影響を与えてくれます。
「13歳からのアート思考」には「自分だけの答えが見つかる」という副題がついています。これからの時代では個性的な考えが貴重な価値として存在感をますます持つようになると考えられています。そんな時代に自分だけの答えを見つける力というのは不可欠と言えるでしょう。本書はそんな新しい時代をたくましく、快活に生きるための重要なヒントを与えてくれる内容だと思います。私の人生がかつてアート思考によって大きく変化したのと同様に、アート思考との出会いがきっと「自分だけの答え」を出すことができる人生を歩むきっかけになることでしょう。
最後まで読んで下さってありがとうございました。今回もかなりの文量にはなりましたが、本の内容までは詳しく説明していないので、細かいところが気になる方は是非手に取ってもらえたらと思います。このような時代になっていよいよ美術教育は真価を発揮する時が来たと思います。これからもアート思考で創造的な人生にしていこうと思いますし、少しでもこのブログを通して皆さんとそんなアート思考を共有できたらと思います。
次回は「自然に学ぶ美」について記事を書こうと思います。これまた壮大なテーマなので、欲張って一気に色々と話を膨らまさないように注意したいと思います(笑)
それではまた!
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