遊んでこそ学べる

  今回は私が教育のモットーにしている「遊び」をテーマに記事を書きます。

 皆さんは「遊び」と聞いてどのように考えるでしょうか。それがもしも仕事や勉強と相反するものであると考えているのであれば,私はちょっと勿体無いと思います。なぜなら「遊び」と仕事や勉強はかなり両立するものだからです。私がこうして休日や学校での勤務時間外にブログを書いているのは紛れもなく「遊び」の範疇ですが、これを通してたくさんの学びがあります。さらに言うと,もし私がブログを書くことを仕事にして副業としてやっていくようになったとしても,これまでのように遊びの一環として書き続けると思います。遊びは楽しい限り続けられるものであり,遊び自体楽しさを発展させる構造をもったものです。

 私は修士論文で「遊びの構造を分析することで見えてくる造形教育の在り方」について研究しました。なぜ遊びについて研究しようとしたかというと,私が実家で飼っていた猫の日々の遊びから知性を伸ばしたり,世界を広げるヒントがあるように感じていたためです。実家には猫がたくさんいましたが,一番よく遊ぶ猫はとても賢く,好奇心旺盛で猫とは思えないような行動をたくさんしていました。かなり気性の荒い猫だったので,手を焼いたこともありますが,その分色んな関わりがあったように思います。そんな猫の遊びを見ていて,そもそもなぜ知能の高い動物は遊ぶようになったのか考えるようになったのが研究をスタートするきっかけとなりました。


 そうしてゼミの先生が私に推薦してくれた本が西村清和著「遊びの現象学」だったのです。この本は遊びを哲学的に分析していて,研究を進める上で大変有益な情報を得ることができました。あまり大衆向けではありませんが,大変おすすめできる内容なので,教育に関わる人には是非読んでみて欲しい本です

 この本を要約すると,「遊びとは自己目的的な活動であり,遊びが何か他のものに利用されてしまうと,遊びとそれに向かう人の同調関係は壊れてしまい,遊べなくなる。遊びが遊びとして発展していくには,あくまで遊びの同調関係の中で生じるゆらぎ(浮遊)を創造的に遊ぶことによって可能となる。」という感じです。なんかモヤモヤする要約で申し訳ありません(苦笑)。これはつまり,遊びはあくまで遊びであるから楽しいし,発展させていけるのであって,もしもこれが勉強や真剣なスポーツの場などに取り入れられてしまうと,その瞬間に遊びは本来的な遊びでなくなるということです。かけっこを一日中している子どもでも,これが持久走になると途端にやる気を無くしてしまったり,普段テニスで遊んでいる人も,これが真剣な試合になると遊んでばかりもいられなくなります。勉強もそうです。例えば積み木は良い教育玩具として人気がありますが,普段なら自由に創意を持って積み木遊びをしている子どもも,「このお手本の建物のように作ってみましょう」と指示を受けてしまうだけで,積み木との遊びの関係は無くなってしまい,労働的なものになってしまいます。

 遊びがそのようなものであれば,結局遊びは「役に立たないただの気晴らし」のようなものとして考えられてしまうかもしれません。しかし,遊びの中で起こることを分析していくと,ただの気晴らしとして片付けるには勿体ない遊びの魅力が見えてきます。


遊びの姿

 まず遊びをするためには遊び手が面白さを感じていなければ遊びを続けられません。では面白さを感じるために何が必要かというと,達成感や自己効力感,自己有能感などになります。遊びは簡単すぎるとすぐに飽きてしまいますし,難しすぎて手も足も出ないようなものであれば諦めてしまいます。自分が活かされている感覚であったり,自分ができている感覚がもてる丁度良い状態の時に遊べている状態になります。また,難しいことでも工夫を重ねて成功するとさらに発展した遊びが可能となります。遊び相手や物との相互の調和した関係の中で私たちは新しい気づきや能力を獲得し,さらに面白い遊びを実現していきます。

 より遊べている状態に発展するポイントである「気づき」や「能力獲得」ですが,これ自体を目的にして遊び手が遊んでいるわけではありません。より良く遊ぼうとする中で自然と気がついたり,能力を伸ばしたりするわけで,もし遊び以外のことを目的にしてしまったらその瞬間に遊びの関係ではなくなってしまい,面白さや続けたい気持ちはダウンしてしまいます。遊びの目的はただ単純に面白く遊ぶという自己目的的なものであり,面白いから続けたいというシンプルな気持ちにあると言えます。しかし,その中で自然と学びが実現されていることは注目するべきことでしょう。そう考えると,主体性や内発的動機付けといったものが「遊び」には存在し,自己目的的に発展していくことに大切な役割を果たしていることが見えてきます。主体性や内発的動機付けは生きる力につながる学習をする上で特に重視されるべきものです。

 遊びは際限なく発展していくものであり,ある程度のレベルに達したら次々にステージを変え,遊び手の世界を広げていくことになります。まるでドラゴンボールに出てくる強敵の戦闘力が際限なく上がっていくように,遊びのレベルも果てしなく上がっていきます。なぜなら,遊びというもの自体が社会と相対的なものであり,文明が発展したらそれを遊びに反映させてさらに内容を充実したものにすることも可能なためです。

 しかし,だからと言って昔ながらの遊び,例えば「鬼ごっこ」などが廃れるかというとそうでもありません。このクラシカルな遊びはこの先もきっと遊びの代表格としてとどまり続けるのではないかと思います。クラシカルな遊びでも遊び相手を変えるだけで難易度の全く異なる遊びに変化し,また違った形で遊び手を楽しませてくれます。遊び自体がもつこのような柔軟性もまた魅力といえるでしょう。どれだけ単純な遊びであっても,遊びの無限の可能性の中で,遊び手は楽しみながらより遊べる状態へと自分自身を変化させていきます。


遊びという学び

 遊びをしている中で自然と能力が培われることは主体的な学びについて考える上で大変重要なことだと思います。学ぶこと自体が遊びになれば主体的な学習者となり,「学びたいから学ぶ」「面白いから学ぶ」という内発的動機付けの状態になります。これが理想であることは自明のことですが,実際にはそんな状態で学習をする人はあまりいないでしょう。

 その主な原因と考えらるのが,成績をつけるためのテストなどでしょう。テストが自分の達成度を確認して,学ぶべきことの振り返りや,現状のメタ認知に役立てるというのであれば,主体性を失うことになるとは思いませんが,子ども同士で点数を競わせたり,通知表の評価をちらつかせてテストに取り組ませると,せっかく内発的動機付けによって学習していた人が「成績のため」「ライバルに勝つため」といった,学ぶことの楽しさ以外の目的が主張を始めるようになります。これは内発的動機付けに対して外発的動機付けと言われていて,行動が報酬によって支えられる状態です。このようにして元々内発的動機付けによって行動していたことが報酬などによって外発的動機付けによるものになってしまうことをアンダーマイニング効果と言います。こうなってしまうと,主体的な学びが非常に難しくなりますし,報酬が発生しないと学びのモチベーションが発生しないため継続的に取り組むことが難しくなってしまいます

 このようなことから,私たち教師や子どもの教育に関わる全ての人が力を入れるべきことは自ら学べる子どもを育てることだと思います。子どもたちが主体的に学ぶ状態であれば,子どもの周りの大人は適切な環境を用意するだけでも十分に学べるようになります。これが授業ではどのような状態かというと,教師の求める正解に子どもたちが近づいていく限定的な学びの状態ではなく,子どもたちが自ら創り出した問いを実現するために教師がサポートするという状態になります。その結果多様な答えが生み出されることになります。


教育者は教材をオモチャに

 私は教師という仕事は,教材研究によって教材を子どもたちのオモチャにすることだと考えています。そのためには遊べる要素を盛り込むことが不可欠です。美術の場合,材料さえあれば,教師が邪魔をしない限り何も指導をしなくてもそこそこ遊べるのですが,この遊びを促進するためにきっかけづくりをすることが教師の存在意義として大きいと思います。技法や道具の使用方法などを少し教えるだけで,表現の幅が大きく広がります。このような指導はやり過ぎると逆に子どもたちの表現の幅を狭めてしまうことにもなりかねないので,必要最低限の技法説明にとどめるようにしています。その代わり,一人ひとりの状態に合わせてサポートすることを心がけ,あくまで制作者の主体性に委ねながらも,行き詰まった時にはそれを打開するためのヒントを提供するようにしています

 このような授業については,私自身まだまだ改善の余地があると強く感じていて、時には「表現を誘導してしまった…」などと反省することもあります。子どもの分だけ対応の仕方は異なるので,失敗と反省を繰り返しながら,日々精進を続けるしかありません。しかし,それもまたゲーム性があって面白いと考えています。経験値を積んだ分だけ多様な手立てを考えることができるようにもなり,より子どもたちの成長を見ることができるようになって,やりがいをさらに感じられるようになります。

 学校はたくさんの教科を学ぶ場所です。そして各教科,掘り下げて学習することで世界の真理や本質に迫ることができます。各教科による多視点的な知の冒険によって,核心的な部分に触れることができれば,そこから他のこととの共通点が見えるようになり,「もっと知りたい」という知的好奇心をもつことができるようになります。このように学習を遊びの状態に近づけることができると期待してつくられたのが新学習指導要領なのではないかと思います。ここでは「主体的で対話的な深い学び」がテーマにあげられており,これはまさに遊びの構造をもった学習がこれからの教育で求められていることを意味すると考えられるのではないでしょうか。


仕事も遊びに

 私は仕事も遊び化させることを大切に考えています。1年後にはどれだけ自分の仕事を発展させることができるかイメージしてみて,何も変わるイメージがなければ,その仕事の状況に遊びを見出すことができていないと言えるかもしれません。仕事が遊びなら今後に向けた期待が詰まったものになり,やってみたいことで満たされていきます。面白いから仕事をする。やりたいから新しい仕事に取り組んでみる。そういう遊びの状態を,美術という私の一番のツールを用いて実現していきたいと思います。そういった意味で私は美術室をその拠り所にしています。この空間で色々なものを生み出し,空間の魅力自体も常に進化させアミューズメントパーク化していけるようにしています。今年度も残り2ヶ月。来年度に向けてさらに進化を加速させていきたいと思います。


 最後まで読んでくださってありがとうございました。今回は「遊んでこそ学べる」をテーマに記事を書かせていただきました。遊びはただの娯楽ではなく,深い学びを実現する理想的な状態でもあります。しかし,そんな遊びを発展させるためには様々な工夫も必要です。遊びのある良い教育をするために,これからも研究を続けていきたいと思います。

 次回は造形活動の中で見られる遊びとその進化について私の授業実践を元にお話しします。授業のことではありますが,美術は深く見ればこの世の中の様々なことに繋がるものなので教師をしていない人にとっても価値ある内容になるよう頑張って書きます。

 それではまた!

 

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