前回に引き続き「遊び」についての記事を書きます。今回は造形活動における遊びの創造性について述べていきます。そしてそのために自動化する学びが大切であり,「遊び」に潜在するその可能性について迫っていこうと思います。
私は大学院の時から常に「遊び」を美術教育だけでなく,人生のあらゆることにその要素を見出し,活動や学びの充実を図ってきました。このブログやウェブサイトを始めたことも自分の活動をより遊べるものにしたかったためです。教科教育や学級を経営し,部活動でテニスや美術を指導するという普通の教員としての人生も決して悪くはなかったのですが,そのような日常に少し飽きてしまったというのが本音です。より美術教育を通して刺激的に遊びたいと考えた時に,ブログやウェブサイトで発信力を高めたり,厳しい環境に身を置いて自分のレベルをさらに上げたいという考え方に行き着きました。より厳しい戦いを好むサイヤ人のようなマインドセットです。本当にドラゴンボールはと幼少期に出会ってよかった(笑)
「遊び」を人生の核に置くことで,刺激や発見を求めて行動する習慣が確立します。これは「学びの自動化」と言えるもので,このような状態に少しでも多くの子どもたちが成長できるように学習の在り方を説明しているのが学習指導要領になります。特に来年度から中学校でも施行される新学習指導要領では「主体的で対話的な深い学び」をテーマにしており,この狙いは自ら問題解決し,生涯にわたってたくましく学び続け,柔軟に生きることができる力の育成にあります。いよいよ「生きる力」について文科省も本腰を入れてきた感じがしますし,GIGAスクールというのは国をあげて新しい学びに向かって学校を変革していく決意の表れと取ることができます。
「学びの自動化」を私はこれまで常々目標にして授業を考えてきました。今回はそんな授業の中からヘンリー・マチスのカット・アウトという表現を参考にした教材「カット・アウトで喜怒哀楽」を紹介しながらどのように学びが深まっていき、創造性につながったと考えられるか説明します。
この授業ではまず喜怒哀楽の中から自分がテーマにしたい感情を決め,自分のイメージに合う画用紙を選び,下がきなしにハサミで形を切ります。切ったものは喜怒哀楽それぞれのテーマに分けられた四つ切り画用紙に好きなように貼り付けさせ,最終的にクラス全員分の切り絵で作品ができます。紙からはみ出しても良いことぐらいは説明しますが,どのように貼り付けるかは何も言いません。作業時間は20分程度。
この授業をする前にマチスやピカソに関する授業をするので色や形に関する意識はかなり自由になっていることと,マチスのカット・アウトも鑑賞しているので,何となくのイメージは掴めていますが,やはりいざ自分たちがするとなると難しく感じるものなので,作業を開始する前に,私が実際にカット・アウトをやって見せて,デッサン的に写実的な表現ではなく,特徴的な形になったとしても表現の魅力は失われるものではないことと,切り絵ならではの明快な形と色の魅力について確認した上で取り組んでもらいました。
その結果,多くの生徒がテーマに沿って形を上手下手関係なく自由に切り,他の生徒と一緒に貼り付けをする中で興味深い表現の発展と創造性を見ることができました。完成した作品を黒板に貼り付け,表現の魅力について考えさせると「とても簡単で,ただ工夫するだけで良い作品になった」「友達と一緒にやっているうちに面白いアイディアが浮かんだ」「上手下手関係なく自由に表現してみようと思う」などといった振り返りの言葉をたくさん目にすることができました。
このような活動になった要因を「シンプルに取り組める」「仲間との協同の中で表現が発展する」「想定外を歓迎する」の3つのポイントで考えてみました。これらはこの制作で「遊び」を可能にしたとても大切な要素だと考えています。
シンプルに取り組める
今回の制作は1時間だけのもので,この後に続く制作のウォーミングアップのようなものでした。なので,子どもたちにも「作品自体を成績に入れるわけではないので,好きなように遊んでみて!」というスタンスでいきました。
それでもこの表現をしたことがない生徒がほとんどなので最初はすごく慎重になっている生徒が多かったです。上手下手や成績には関係ないと言っても,「失敗しないように」という強力なマインドセットがハサミで切ることを躊躇わせていたのかもしれません。しかし,そんな時間は長く続きませんでした。次第に意を決したようにほとんどの生徒がどんどん切り進め,形を切り出していきました。そして,切り出した形を見て,自分の切り絵を自分で笑ったり,近所の生徒と見せ合いをして形の面白さを伝え合ったり,とても和やかな雰囲気になっていきました。自分の形が変だったらどうしようなどと考えている生徒も多かったでしょうが,みんながユニークな形で表現していたら,不安に思っていたことなど関係なくなります。他者受容感や自己肯定感に溢れた「遊び」の前提のような環境になっていきます。
今回の作業は短時間でこのような状況になりやすい設定にしていました。まず,「上手下手関係なし,成績にも関係なし」というリラックスして取り組める状態です。これによって思い切って作業がスタートできます。そして「色画用紙に下がきせずに切る」ということです。これによってデッサン的な形の再現性は困難となるので,写実的な表現へのこだわりを捨てて自由に表現ができます。ちなみにそれでも写実的に表現したいという生徒はいたので,それはそれで自由に取り組んでもらいました。
このような表現方法に対して,「あまりにも稚拙な表現ではないか」と思われる方もいるかもしれません。しかし,それは半分そうとも言えますし,半分は違うと言うことができます。形を切り出すまでは直感的で幼児が切るのと似たような状態ですが,その切った形を見て気にいるかどうかは中学生の観点を通して行われることになります。
そもそも,幼児が形を切る際の形の選択と,中学生のそれとでは全く違います。直感的に切っているようでも中学生の場合,幼児に比べてかなりの理性的なコントロールが混じっています。切り進めながら「ここは強調しよう」「もう少し滑らかな曲線にしよう」などとさまざまな意図を入れているはずです。なので,稚拙と安易に決めつけるのは短絡的と言えるかもしれません。
心の中の形は幼児も中学生も人それぞれ。その違いが形になって現れるのがカット・アウトの魅力と言えます。実際にマチスはカット・アウトで「色でデッサンすることができる」「心の中のそのままの形を表現できるため,正確に表現できる」ということを言い残しています。一般的なデッサンはカメラと同様の視点で対象を写し撮りますが,マチスの目指した現実性は心の中の形だったのです。心のフィルターを通した形は人それぞれであり、この形を表現すること自体創造的な行為と言えます。
この表現はシンプルですが,その分工夫もしやすく,失敗したと思ってもすぐにやり直しが利きますし,継ぎ足しも簡単です。また,目には見えない喜怒哀楽のオーラも気軽に表現することができ,そのパーツの配置をミリ単位で調整してベストポジションを決めることもできます。このシンプルな積み木で構成を楽しむような感覚がカット・アウトの大きな魅力であり,遊べる要素になったのではないかと思います。
仲間との協同の中で表現が発展する
今回の制作では自分が切り出した形を喜怒哀楽に分けて画用紙に他の生徒と一緒に貼り付けをしました。この協同作業にも狙いがあり,生徒は自分の作品を貼り付けるだけでなく,他者の貼り付けの作業を見たり,自分が貼り付けた後に他の人が貼り付けてどのような進化をするのか興味津々な姿でした。コロナ禍で本当ならすぐに席に戻らなければいけないところでしたが,好奇心のスイッチが入ってしまうと強制終了するのは難しいため,適度に離れるように指示を出すのが精一杯でした(苦笑)
他の生徒と一緒になって貼り付けをしていると,絶妙な組み合わせが生まれてきます。1枚の画用紙の上に貼り付ける切り絵は共通のテーマです。しかし,共通する場合もありますがそれぞれ異なった色を選び,全く異なる形を表現しているため,実に多様なものが貼り付けられていきます。その中で一人の表現ではできなかった関係性が生まれていきます。単体では発揮されなかったものが,他の切り絵とセットになることで新しい意味が生まれ,それをさらに発展させるために,表現が追加されていきます。そうしてさらに新しい関係性が生まれて画用紙上に世界がつくられていきます。作業時間は20分でしたが,時間が来ても粘り強く作品のレベルアップに執念を燃やし,それを応援したり手伝ったりする生徒が沢山いました。あるクラスでは出来上がった時にはみんなで拍手。子どもたちが真剣になるのは成績云々ではないことを改めて感じた瞬間でした。このような際限のない表現の発展も「遊び」の姿であり、そんな作品は大変創造性溢れるものになります。
想定外を歓迎する
授業はあくまで授業であって「遊び」ではない。これは残念ながら認めざるを得ない事実です。授業なので時間制限がありますし,道具や材料,環境は教師が準備したものによってかなり制限される部分もあります。そして,なんだかんだ振り返りなどで感想を書くなどするため,その点においては少しばかり評価にも反映しなければいけません。これらは「遊び」の条件を満たすものとは言い難い部分です。しかし,この制限のある中で「遊び」がその真価を発揮するのです。
ある生徒が自分の切り絵を貼り付けた後,その場にとどまって他の作品が貼り付けられていくのを見ていました。彼が選択した感情は哀。突然画用紙を切り刻み始め,接着剤を塗りたくってその上に画用紙を散りばめ始めました。
このような表現は想定外で私のイメージでは切り出した画用紙を一枚一枚貼り付けたり、ミリ単位で画用紙の場所を調整したりなどを想定していましたが,彼の表現はどちらにも当てはまりません。直感というよりは,むしろ本能の赴くがままに紙を切り刻み,接着剤と画用紙の絡み合いを感じ取りながら画面に定着させていったのです。実に愉快そうな姿で,もはやトランス状態でした(笑)
これも時間をかなり越して作業してしまい,授業の最後の振り返りの時間が駆け足になってしまったので、授業のマネージメントという点では反省しなければいけませんが,彼の行った「遊び」は遊びの創造性を考える上でとても重要なものであったと思います。そして彼は表現について深く学んでいたと思います。この後の制作でも彼は非常に感性豊かな作品を作っていたので、表現においてかなりのメタ認知があったと考えられます。
想定外のことに対して、もしその活動を止めるようなことをしてしまったらせっかくの新しいものとの出会いを台無しにしてしまう可能性があります。可能な限り想定外のことに対して歓迎する姿勢をもち、授業と遊びの微妙なバランスを取りながら許容範囲内で活動させる。これに関しては私はまだまだ未熟者ですが、このような中でこそ、創造性溢れるものが生まれると思うので、授業における遊びのファシリテーターとして精進していきたいと思います。
最後まで読んでくださってありがとうございました。今回は遊びの創造性と自動化する学びについて授業実践を振り返る形で述べさせていただきました。
遊びを利用して学習効率を上げるというレベルのものではなく、そもそも教材は遊び込めるものにした方が結果的に大きな学びになるのではないかと思います。この点においてはまだまだ色々と研究していかなければいけないと私自身考えていますが、「遊び」のもつパワーは間違いなく学習において優先的に考えておくべきことだと確信しています。
これからも遊び込める教材を考えていきたいと思いますので、また機会があればこちらのブログで紹介したいと思います。
次回はまたまたペットボトルキャップを用いた造形についてお話する予定です。完全にペットボトルキャップに魅了された男、達脇は冬休みから1月末までに3つのペットボトルアートを製作しました。以前にも紹介しましたが、「素材のもつ魅力」ということで新たに発見したペットボトルキャップアートの魅力を早く紹介したくなってしまいました(笑)
ということで次回も張り切って記事を書きますので、どうぞよろしくお願いします!
それではまた次回!
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