美術嫌いを克服する教材 〜遊びを通して自分自身が作品になる抽象画〜

  


 前回に引き続き「美術嫌いを克服する教材」について記事を書きました。今回の内容は「自分自身自身が作品になる抽象画」です。

 「自分自身が作品になる」というのはどういうことかというと,「自分らしさ」をそのまま生かし、「自分にしかないもの」「自分の分身のようなもの」を表現するということです。

 このようなことを言うと、抽象的で何か難しいことのように思われて、「そういう難しいことを言うと逆に美術が嫌いになるんじゃないのか!?」と思われるるかもしれませんが、意味していることは極めてシンプルで、「何でも良いからとりあえず自分のイメージを用いて表現する」ということです。例えば、「丸を描いてください」と言われたら、皆さんはどういう丸を描きますか?

 丸を描くだけでも色々な丸があります。小さな丸を描いたり、真円に近いものを描いたり、雑な形のものであったりと、どの丸を描いても間違いではありません



 この丸を描くという行為が1回だけであれば、それほど大きな違いにはなりません。しかし、形を組み合わせるとなると、一気に違いが生まれていき、その積み重ねが全く違う個性的なものになっていきます


 考えてみれば当然のことかもしれませんが、独自のものを積み重ねた分だけそれらが掛け算となって大きな違いになっていきます。表現が苦手な人というのは、本来ならどのように表現しても良いはずのものに対して、「型のある正解」を求め、失敗を気にするあまり失敗しないように「何もしない」という状況に陥ったり、誰かの形をただ写すという「他者の正解の劣化版」を表現しようとするがゆえに、自分の方が「下手」であると比較して、表現への苦手意識を増長させてしまう傾向があります。

 ただ丸を1つ描くだけでも、そこに何かしらの描き手の内面性が反映されます。また、内面性だけでなく、描き手の周りの環境との相互作用(アフォーダンス)によって、生物的な反応も相まった丸を描くことにもなります。この点において紙質や描画材というのはかなりの影響力を持っていると考えられます。これらの総合的な要素が1つの丸を描くだけでも働いていて、人それぞれ全く異なった丸を生み出すことになります。



 以上のことから、子どもたちには、どんな形を書いたとしても自分を表すことになり、そこに要素を追加したり、省略したりすることで、より自分らしさが反映されていくということを伝えるようにしています。そして、その際に「何かの手本」という、「ある考えにとらわれたもの」ではなく、ただ単に「形と色で遊びながら」表現をして、自分らしさを反映させる行為を積み重ねていくということを伝えます。

 ただ、「色と形で遊ぶ」と言っても、その遊び方が分からないという子どもが中学生には沢山います。幼いときは紙と描画材さえあれば殴り書きをしたり、絵の具でぐちゃぐちゃになりながら遊んだりして、環境さえあれば自然と遊べるのが本来の姿ですが、子どもはどうしても成長している中で固定観念や正解というものに縛られた世界観を作り上げていくものであり、色と形で遊ぶ方法を忘れてしまいます。しかし、きっかけさえあれば本来の姿を取り戻し、成長した知能との掛け合わせもあって、幼少期よりも更に遊べるようになると私は考えています。だからこそ、美術教育によって「遊び」の感覚を取り戻すきっかけを提供することに価値があると思います。

 今回は私の授業実践に関するものから「絵の具で遊ぶ 〜様々な描画法にトライ!〜」というものを紹介させていただき、どのようにして色と形で遊びながら自分自身を作品にする抽象画を制作するのか説明していきます。

 色と形でどのような表現ができるか、これについて子どもたちが認識することで、これを自分で表現する際のツールとして活用できるようになります。それはあたかもオモチャのように。そのために、まず子どもたちには1分程度で適当に好きなように色を塗らせ、そこにどのような表現方法があるか考えさせ、全体で共有を図ります。


 あとは上がった表現方法を好きなように用いて自由に遊びます。様々な表現方法があるということを認識できれば、表現をするのが非常に楽になります。何も情報がない状態で「自由に描いて」といってしまうと、ただぐちゃぐちゃに絵の具を混ぜたり「何を描こうか」と考えて筆が止まってしまいますが、あがった表現方法から自分のやりたいと思ったものを次々に試してみることで自然と絵は発展していきます。





 遊ぶと言っても、結局は遊ぶための方法やルールを知ることが大切です。訳も分からずまるでトランス状態のようになって作品を制作するという方法もありますが、それでは形と色で遊べている感覚がそもそもありません。遊ぶというのは自分自身が遊びを多様な方法を駆使して充実させ、ある程度のルールの中で遊べている感覚、面白さがあってこそ、人は遊び続けることができます。そして、遊びはルールと言っても、それは決して堅苦しいものではなく、よりよく遊ぶために、そのルールは容易に変化していきます。

 例えば、最初にあがった表現方法以外にも当然沢山の表現ができますし、そういったものは制作をしている中で発見できるものです。形を描いたり色を塗ったりするという行為は、多くの子どもたちの中で「筆を用いる」という暗黙のルールがありますが、それ以外にもドリッピングで絵具を散らしたり、手で描いたりといった方法でも色や形を表現することができます。





 こういった普段考えていないような表現方法と出会い、それを重ねていくことでその人ならではの強烈な個性を放つ絵が形成されていきます。

 ここまではいわゆる「造形遊び」と言われるもので、極端な話、良い体験に特化した活動であり、作品が完成するかどうかは関係がありません。「より面白く遊ぶために遊ぶ」という自己目的的な活動である遊びは、単純に遊べていたかどうかが大切です。しかし、美術という学問であるからには、「造形遊び」で済ませるわけにはいかないという側面もあります。

 何か急に堅苦しい話になってきましたね。しかし、決して美術になるからといって興醒めするものではありません。美術には美術の素敵な魔法のような力があると思います。では、どのようにして、この遊びによって生み出された絵を美術的なものにしていくかというと、「作品のタイトルを考える」ということです。タイトルは作品の意味を端的に表すキーワード。これについて考えることで、作品はただの遊びではなく、見る人に価値を投げかける美術品になります

 何が美術であって、何が美術でないかという説明はあまりに壮大な話になるのでここではしませんが、美術作品として認識する上で、作品の本質に迫ることができる道筋があるのとないのとでは大きな違いになると思います。タイトルを考えることは作品と鑑賞者の対話関係を結ぶきっかけにもなり、それによって鑑賞者が作品から得られるものも多くなります。

 また、タイトルを考えることで、制作者は作品の本質を抽出することになり、そこから作品をより良く仕上げることにもつながります。色や形を積み重ねることによって自分らしさは自然と作品に反映されていきます。そこから普段は自分でも考えていなかったような自分の姿について気がつき、それを作品名に昇華するとさらに個性的で魅力の伝わりやすい作品になっていきます。さらに、作品タイトルを考えると、そのイメージに合うように、さらにアレンジを加えて作品としての完成度を高め、洗練したものに仕上げていこうとする姿も見られます

 作品のテーマやタイトルはビジョンとしての働きがあるため、制作前に考えるというのもありますが、着地点が最初から見えている制作になってしまうと、過去の経験に強く影響を受けたものを作ることになり、自分でも予想していなかったような表現には発展しにくくなりますし、目的地に向かって最短で行こうとしてしまうため、遊びが入り込む余地がなくなってしまいます。将来の夢を早い段階で決めて、それに向かってひたすら真っ直ぐに進んでいくというのが現実的ではないのと同様で、人生いくらでも回り道をしても良いですし、そうしているうちに本当に自分の求めるものと出会うことにもつながるのと似ています。十分にアイディアが詰め込まれてからタイトルを考えても決して遅くはありませんし、むしろ遊びを生かす上ではそういう考え方が大切だと思います。

 作品鑑賞ではお互いの作り出した見たこともない絵とそこにこめられた意味を楽しむ姿が見られ、「確かに〇〇さんらしい(笑)」という反応や「何か意外!」といった反応もあり、お互いを認め合う時間になります。子どもたちの作品からは本当に色々な工夫が見られ、パッと見た時にはどういう表現をしたのかさえ分からないような、こちらの予期していなかったようなものにも沢山出会えて、とても刺激的です。そういう発見が、それまで絵を描くことに抵抗のあった子どもから見られることも沢山あり、ピカソの「子どもは誰でも芸術家だ」という考え方が美術教育の根幹として大切であると思わされます。そして、その芸術家としての力を発揮するために、まずは「遊ぶ」ことが大切であり、遊びに遊んだ先に見えてくる遊び手の独自性や内面性をメタ認知に落とし込み、美術作品として「仕上げる」ことが鍵になると考えています。



 このような自分自身を生かして個性的な作品を生み出す経験があると、美術とは「思う存分自分を表現して、お互いに賞賛しあって学び合えるもの」という認識を持つことができるようになり、美術嫌いの克服に繋がるという手応えを感じてきました。もちろん、このような絵は場合によっては「絵が得意な生徒」に嫌われることもありますが、決してこの取り組み以降にこのような表現を強いるわけでもないので、「表現方法の1つ」として子どもたちに認識させるようにしています。

 私はこれに関する絵画制作をこれまで中学校の1年の1学期に取り組み、美術の面白さを感じるための入り口として扱ってきました。この経験はその後のどの表現にも活用できるものであり、抽象画に関するものでなくとも、色と形でまずは遊んでみて、そこからイメージを膨らませたり、テーマやマインドマップなど言語面から入るにしても、「とりあえず遊びながら表現してみる」というマインドセットを生かして作品を発展させることにつなげられます

 遊びによって結果的に自分らしさの溢れた新しいものを生み出すというのは、現代社会で求められている創造性を考える上で非常に価値のあることだと思いますし、ここに美術教育の1つの意義があると思います。1人ひとりが自分を生かせる社会、そして互いを認め合い共に成長していける平和。このことを授業をする側として常に意識して、これからも教材を開発したり、授業実践していきたいと思います。


 最後まで読んでくださってありがとうございました。今回は美術嫌いを克服する教材の第2弾として遊びを通して自分自身を作品にできる抽象画についてお話しさせていただきました。少しでも今回の記事が、読まれた方々にとって参考になるものになれば嬉しいです。次回は美術教師として普段意識していることについて記事を書く予定です。新年度を迎え、気持ち新たに取り組もうと考えている人は多いと思いますし、私自身もその一人です。自分自身が普段意識していることを振り返り、メタ認知して新年度の取り組みに生かしていきたいと考えていますが、私の意識していることが少しでも誰かの役に立つ情報になれば幸いです。

 それではまた!






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