ソフトテニスの進化が生んだ新たな道具
ようやく足の骨折も癒て、テニスやソフトテニスを最近は楽しんでいます。スポーツの秋を1ヶ月余り離脱するかなりのタイムロスになりましたが、その分晩秋の今、スポーツができなかった10月から11月の分を取り戻すべくスポーツに興じています。
たまには部活動に関することも書きます。今回は私が中学校の部活動で顧問をしているソフトテニスについての記事です。でも、なんとなく美術教育にも話をつなげてみます。美術教師としての職業病ですね。というよりも、美術というものがそういうものにもつながる可能性をもった現象であると言えます。
調子の波があった現役時代から指導者初期
私はソフトテニスを中学校と高校(2年で退部)でやっていました。高校2年でやめてしまてしまったのは自分自身の成長が鈍くなり、相対的に周りの選手が強くなったことにより、試合で勝てなくなってモチベーションが低下したためです。何度か調子を掴んで良い結果を得られることもありましたが、そういう状態は長続きせず、すぐにプレーの精彩を欠くことを繰り返していたため、ソフトテニスをすることへのストレスが爆発してしまい、当時キャプテンを務めていたにも関わらず2年性の10月に退部しました。なので、私にとってソフトテニスはトラウマにも近いような感覚で、私が教師を始めた時の部活動の優先順位は1:美術、2:野球、3:ソフトテニスで申告を出していました。
結果的に1年目は美術部の顧問でしたが、2年目はソフトテニス部に指導できる人がいないということで、当時は非常勤を兼ねる町の教育職員という立場でソフトテニスを指導することになりました。
しかし、私自身ソフトテニスへの悪いイメージを克服できていなかったので、指導する立場でありながら調子に大きな何があり、球出しさえまともにできない状況になることもありました。当時はボールを打つことへの若干の恐怖感さえあるような状態で、またまたソフトテニスに苦しめられる日々が続きました。
しかし、指導者としてソフトテニスと向き合っていると、それまで見えていなかった部分が色々と見えてきて、特に体の使い方やラケットと体の関係への理解が深まっていきました。それまで現役時代は感覚でやっていた部分が沢山あり、私は野球を小学校の頃にやっていたので、その延長線上でソフトテニスをやっているような状態でした。野球は打つ、投げる、走る、捕るという様々な要素が総合的に絡むスポーツなので、中学校の頃はその経験値で割とすんなり上達しましたが、レベルが上がるとソフトテニスならではの動きが重要になってきます。これはどんなスポーツでも同じだと思いますが、それぞれのスポーツには特化した動きがあり、それを理解できるかどうかが中級者から上級者への繋ぎ目として欠かせません。この特化した動きが中高生の頃の自分では取得できていなかったばかりか、テニスが専門の顧問が中学3年生になる時に転勤したことによって中3以降は完全に我流で何とかしようとしていたところがありました。そしてそれに伴って成績は低迷。今思うと当時は相当未熟者であったと思います。
私が高校生の時に上達が鈍り、調子に大きなムラが出てしまったのは、「無駄」な動きがあり、効率の良い体の動かし方を知らなかったことにあります。テニスはラケットの面にどう当てるかで全てが変わってきます。もしボールを打つまでにラケットの面の向きが少しでもブレてしまうとアウトやネットで失点してしまいます。(ソフト)テニスの試合でよく見るのが、実力があると思われている選手が突如調子を崩し、自滅していく試合です。相手はただ防戦をしているだけなのに、アウトとネットの連発でテニスができないまま試合に負ける。こういうことは珍しくありません。
無駄な動きがなく、効率の良い体の動かし方ができると、格段にミスが減ります。無駄な動きというのは「力み」に関するものがほとんどで、テイクバックやモーションが大きかったとしても、力みさえなければ安定したプレーが可能になります。
テニスで取り除きたい力みはラケットを握っている手と、ラケットを回す腕の動きになります。これらに力みがあるとボールを打つまでにラケットの面がブレてしまい、コートにボールが入りにくくなります。なるべく打つ瞬間までは腕と手に力を入れすぎず、100回スイングしたら100回とも同じものになるぐらいの感覚でスイングできるようにならなければいけません。そのためにラケットを持っている腕以外の部分を生かすことが大切です。ラケットを持っている腕に力を入れてスイングをしている間は全て力みのあるスイングになるので、長いトンネルに入ってしまうことになります。
今回は道具についての話なので、力みに関する話はこれ以上広げませんが、これまで調子にムラがあったのは力みが原因であり、そういう体の使い方を染み込ませてしまっていた病のような状態であったということです。
道具で病は治療できる
初級から中級にかけてソフトテニスが上達し、球が強く打てるようになってくると、どうしてもさらに速い球を打とうとしたり、速い球に打ち負けないようにしたりして、「力み」が入るようになり、そのスイングが習慣化し、中級から上級への階段を登ることが困難になる選手が多くみられます。自分自身がそうだったので、そういう選手の気持ちは痛いほど分かります。そしてそういう選手は自分のスイングに課題があることを重々理解しているので、必死になって素振りをします。しかし、そのスイングが「力み」のあるものだと、症状がさらに悪化してしまい負のスパイラルに突入します。そういう選手をサポートするのが顧問やコーチの役割ですが、体の動きは本人自身でないとなかなか修正することができません。頭では分かっていても体は違う動きをしてしまうものです。
だからこそ、本人の感覚にダイレクトに働きかけて体の使い方を調整可能にする道具が効果を発揮します。私はスイングにブレがある生徒に「腕が暴れているから自分の腕を少ししなる木の板のような感覚で打ってみよう」とよく言葉かけをします。しかし、実際に手に持っているのはラケットなので、スイングに入った瞬間にいつもと同じモードになってしまいます。
どうしたら良いかと考えていたところに、いつもお世話になっているテニスショップの店長さんが「達脇先生、こんなものが入荷したんですがいかがでしょう?」と言って見せられたのがこちらのラケット。
左が普段使っているラケットで、右側が今回購入したラケットです。めちゃラケットの面が小さいです(笑)。興味津々で軽くスイングさせてもらったところ、ほとんどしなリませんでした。面が小さくてラケットヘッドが軽くてしならない。こういうラケットから放たれるボールは当たりが悪く、重みのない、伸びを欠いたものになります。現代のソフトテニスの世界では最低の性能を持ったラケットでしょう。おそらくおもちゃのラケットの方が良いボールが飛ぶと思います。
しかし、私は即買いしました。なぜならこれこそ「軽くしなる木の板」のような感覚で打てるラケットだからです。このラケットの名前は「Dr.Skill」というヨネックス製のもので、ソフトテニス部であれば一本あっても良い品だと思います。
このラケットを購入して早速部活動で打ってみましたが、予想以上にボールが飛びませんでした。まともにヒットしているのに相手からすると丁度打ちごろのボールになります。面も小さいので適当に打つことができません。
中級から上級にステップアップする際に躓くのが、ドライブをかけようとして面が薄くなりボールが安定しなくなる問題です。このラケットであればドライブを強くかけようとするとラケットの端の部分から当てることになるので、全くボールが飛びません。ちゃんと飛ばそうと思うのであれば、なるべく芯の部分にフラットに近い状態で当てる必要があり、このラケットで打ち続けていると、面の当て方が分かり、適度なドライブの感覚が掴めるようになります。なので、面が薄くなってドライブがかかりすぎてしまい、コントロールが効かなくなって悩んでいる選手の治療に大いに役立ってくれることでしょう。
最近のラケットは性能が格段に上がり、最近4年ぶりに新しいラケットを購入したのですが、凄まじい性能の向上を感じました。なので、多少変な打ち方をしても良いボールが打てるようになっているのですが、だからこそ、正しい打ち方を身につけて、実力を伸ばせるようにすることに大きな意味があると思います。このラケットはソフトテニスのラケットの進化があったからこそ、面にしっかり当てるという基本に立ち返らせてくれるものです。
これからも顧問として新しい情報や道具には敏感に反応して、生徒のためになるものは用意していきたいと思います。ソフトテニスは私が現役でプレーしていた時とは比べ物にならないぐらいのレベルに進化しています。だからこそ、常に学び続けていかなければいけませんし、自分の指導についてもアップデートをかけ続けていかなければいけないと感じています。近頃は硬式のテニスを習っていて、そこで得た知識や技術でソフトテニスに流用できそうなものは採り入れるようにしています。そういう勉強はとても面白いので、部活動の顧問をしている内は積極的に新しいことに触れたり、生徒と一緒に学んだりしていきたいです。
美術教育との結節点
ここで美術教育との結節点について私の考えを述べて、今回の内容を締めくくりたいと思います。美術教育でも道具を使う知識や技術は重要になりますし、その部分が評価項目として決して小さくないウェイトを占めています。美術の授業では、技術の向上ばかりを目指すものではありませんが、それでも技術の獲得に必要な知識について考えたり、身につけたりすることは大切です。
今の時代は道具が進化し、技術がなくてもそれなりにいい感じにできてしまうのはテニスも美術もある程度共通して言えることですが、だからこそ道具の性能に頼らず、そもそもの体の使い方に目を向ける機会が大切な意味を持っていると思います。「弘法筆を選ばず」の言葉にもあるように、汎用的で確かな技能を持っている状態になれば、道具が変わったとしても「こうすればできるはずだ」というイメージがあるため、すぐに順応することができます。柔軟に道具と体が反応し合うアナログの経験値があれば表現の手段がデジタルであろうと幅広く対応が可能になることでしょう。自分の体の動きについて道具を通して知るというのは私たちが自分の体でこの世界に存在し生活している以上、不可欠なことだと言えます。
テニスラケットも画材も、お店で眺めているとどれも欲しくなりますし、実際に使うとそれまでに味わったことのない使用感から感動体験もさせてくれます。しかし、その体験を深めずに薄っぺらいままで、次から次に道具を新しく購入していってしまうと、肝心の技術が全く上がらず、自分で何かを生み出せる状況にはなかなかなりません。道具を生かせるかどうかは使い手自身の問題であり、体の動きと道具について理解を深め、その中で何か道具の性能的に自分のイメージを表現するには足りないと感じた時に道具をグレードアップさせれば良いでしょう。
1つの道具を徹底的に使い込んでみる。そういう経験が便利な情報と物に溢れた現代だからこそ必要であり、その上で自分にとって最適な道具との出会いを作れることが理想なのではないかと思います。
最後まで読んでくださってありがとうございました。今回は「ソフトテニスの進化が生んだ新たな道具」の紹介と、道具との関わり方という点で美術にも話をつなげてみました。私は美術とスポーツ、または音楽といった体と道具の最適化を目指した活動にはどれも共通したものがあると考えています。そういったことを学校教育でも生徒たちに考えさせて学ぶ楽しさについて知ってもらえるように、これからも教育基本法に則って研究と修養に努めていきたいと思います。
それではまた!
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