体育会について考えたこと

  6月4日、私の勤務する中学校で体育会が行われました。今回の体育会は私個人としては大変印象的で楽しめるものになりました。ただ、体育会をより良いものにしていくためには改めなければいけない部分もたくさんあり、現代の教育に適応させながら体育会という大きなイベントを変えていかなければいけないと感じました。

 今回は体育会が今後どうあるべきなのかについて考えてみました。私自身が考えたことを整理するために書いていますが、この内容を読まれた方にとって少しでも参考になれば嬉しいです。


体育会の時期について

 今年の体育会は6月4日に開催されました。この時期は気温がかなり高くなってくる時期ですが、今年は幸いにも5月末からの練習の時期から比較的活動がしやすい日が多く(それでも25度以上の夏日が続きました)、私がこれまで勤めてきた学校で多かった9月開催より、身体的な負担はかなり少なかったと言えます。できれば5月中に行っておきたいところですが、私の中学校では5月に修学旅行などの校外研修が集中しており、6月頭に開催するのが日程的には限界という感じです。

 体育会をする時期としては秋雨前線が去る10月下旬ぐらいが一番運動をしやすいですが、この時期は新人戦と被ってしまうので現実的ではないことを考えると、5月下旬〜6月上旬、9月下旬〜10月上旬という時期が条件的にも良いと言えます。過去に9月の第1週(8月4週目に2学期開始)という学校がありましたが、これは大変過酷でした…。


マスクについて

 気温的にはそれほど負担がない時期ではありましたし、体育会当日も爽やかな天気で運動するには絶好の状態でした。ただ、コロナ禍ということもあり、競技中以外はマスクを着用しており、マスクを着けながらの活動になると、体調を崩す可能性も高くなります。練習や本番で調子を崩し、休まなかければいけなくなる生徒が続出したことを考えると、それほど高くない気温でもマスクを着用して活動するのは決して体にとって好ましいことではないことを確認することになりました。そもそも外であれば、マスクを着用する必要性も低いことから、マスクを外す、もしくは比較的呼吸をしやすいタイプのマスクを薦めるなどしても良かったのではないかと思います。不織布のマスクは布やウレタン系と比べると感染予防にはなりますが、そもそも外では感染リスクも低いですし、汚れやすい環境であることを考えると、外の活動の際はマスクを替えて快適な状態で活動できるようにするのも手段の一つではないかと思います。実際に私は部活動や体育会の練習の際にはウレタンや布のマスクを着け、校舎内で活動するときには不織布のマスクに付け替えています。


体育会当日は生徒の頑張りで素晴らしいものに

 暑さやマスクの影響もあり、身体的には決して楽なものではなかったかもしれませんが、体育会当日は生徒の頑張りでとても充実感のある良いイベントになりました。足が速い遅いに関係なく一生懸命走り、クラスメートだけでなく、名前も分からない他の学年の生徒を一生懸命に手を叩きながら応援する生徒の姿を見ていると、体育会は「人間性」の詰まったイベントであり、その場に集まった全員で盛り上げる「祭り」のようなものであると感じました。実際に体育会のことを体育祭という学校もあり、そもそも楽しんだり感動したりするためにあるイベントと言えます。生徒が楽しめないような体育会になってしまったら学校の責任であり、何かを変えていく必要があります。

 今回私の担当するクラスには競技に参加せず応援のみという生徒もいましたが、その生徒も頑張る選手を応援するだけでも楽しかったと言ってくれて、本当に嬉しかったですし、安堵しました。運動が苦手な生徒もクラスメートとバトンパスの練習をして本番でスムーズにバトンパスできてタイムが上がったり、二人三脚をたくさん練習して速く走れるようになり、本番でも良い走りができたりして、応援だけでなく競技でも充実感を得られるなど、勝利できなくても満足できるものになっていました。私のクラスは順位的には良いものではありませんでしたが、最後に撮ったクラス写真には生徒の爽やかなやり切った笑顔が溢れていたので、担任として救われました(笑)。

 今回の体育会で最も印象的だったのが、私のクラスだけでなく、会場全体が選手全員を応援する雰囲気があったことで、これは本当に喜ばしいことでした。これがもし勝利至上主義に偏ったものになってしまっていたら、他クラスの生徒を応援する姿や、ましてや競技に関係のない多学年の生徒を応援する姿も見られなかったかもしれません。改めて体育会の価値について考えさせられる1日となりました。


体育会をもっと良いイベントにするために

 私自身が中学生だった時や教師を始めた10年以上前と比べると、今は非常に「楽」ができる体育会になったと思います。待機場所(応援席)にはテントがあり、涼しい環境で競技を観戦できますし、入場行進もありません。コロナ禍のお陰で色々なものが簡略化されて必要な部分に絞られてきたと感じています。生徒が他の選手の応援を一生懸命できるのも、涼しい環境で休み、体力を温存できているからこそであり、私が中学生や高校生だったときのように、待機場所(応援席)にテントがなくて、一日中天日干しになっているような状態だと長時間応援することも難しかったと思います。自分に余裕があるというのは本当に大切なことです。

 それでも練習の際には体調不良者が続出するという状況を考えると、まだまだ改善のポイントはあります。体調不良者に対する寛容な姿勢も教員の中には定着しましたが、やはり古くから根強く残っている非合理的な部分を認識し、変えていかなければいけないと思います。


「体育座り」は合理的か

 問題の核心にあるのは根強く残る「軍国主義的な」考え方や儒教の教えから生まれる姿勢であると考えています。これらの全てが悪いわけではないと思いますが、やはり時代にそぐわない部分は改善が必要でしょう。

 例えば、座り方で体育座り(三角座り)というのはかなり一般的ですが、この座り方は海外では基本的に見られません。どうして日本でこの座り方が一般化し、それ以外の座り方をしていると「ルール・マナー違反」として指導を受ける対象になってしまうのか。それは体育座りをしていると、手足をがっちりホールドして動けない状態にでき、話をする人に集中させることができ、見た感じもお行儀が良く見えることに関係していると考えられます。話を集中して聞くのは決して悪いことではありませんが、本当に話をしっかり聞くというのは「対話的な関係」に双方があるときであり、対話的な関係でのコミュニケーションの際には相槌や体の動きが入るのも自然なことです。面白い話が聞けたら手を叩いて笑う、納得できる話であれば大きく頷く。こんなアクションがあって充実したコミュニケーションに発展していきますが、手足をホールドして上半身の自由も効かない状態の体育座りでは顔で表現するしかありません。手を叩くのも体育座りのままでは難しく、拍手は腕を足につけた状態のまま小さく手を動かしてペチペチと小さな音が鳴るだけです。

 体育座りは先生と生徒を上下関係で結び、生徒の体の動きを奪った上で、話を聞かせるという考え方が根本にあり、学校を卒業してからはこのような座り方をしている大人をほとんど見たことがないと思います。この座り方が一般的にいかに不自然で非合理的なものであるか、学校の現場にいると感覚が麻痺してしまうこともありますが、学校も新しい時代を迎えているので、この部分については改善していくべきところであると考えています。体育座りは健康面でも良くないという話もあり、少しずつ体育座りを止める学校も出てきているようです。体育座りができないならどういう座り方が良いのか?という意見も出るかもしれませんが、そもそも長時間無理な姿勢で座らせて話を聞かせる方が問題なので、長時間なら椅子を出す、体育会や体育の授業でグラウンドで話を聞く時は立ったままで短時間で話を終わらせるぐらいで良いと思います。実際に部活動では多くの部が短時間のミーテイングを立ったままで行います。座るということ自体が健康上あまり良くないという研究結果も出ているぐらいなので、座る必要がないときは立ったままでいくというのも考えていくべきだと思います。

 ただでさえ体の自由が効かない体育座りをしていて、急に「起立!」と声をかけ、「遅い!座れ!…起立!」という理不尽な指導を受ける生徒を見ているのも辛いものがあります。体育座りで綺麗に座り、その状態から一生懸命素早く立つ生徒の姿を「良い生徒」と考えるのは何か違和感を感じます。誰のための「良い生徒」を育てなければいけないか、教師側が考えていかなければいけないでしょう。

 体育会で一糸乱れぬ動きになるよう長時間かけて練習するのが教師からの強制である限り、軍国主義的な雰囲気を残すことになります。もし、生徒会でそういう動きがしたいという決定がされて、全校の多くの生徒が軍隊のような動きをしたいと決まったのであれば、それはそれで良いと思います。日体大の演技などを見ていると、そういったものが立派なショーになり、やっている方も充実感を得られるというのは素晴らしいことです。しかし、教師が怒号を立てて全員ができるまで繰り返し練習するというのは「主体性」という言葉が教育の中心になっている現代において、あってはならないことです。

 生徒が主体性を発揮して体育会だけでなく、学校生活の様々な部分で生き生きと活動できる状態になるよう、教師としてやるべきことはたくさんあります。そういったことを少しずつ実現していくことも教師としての働き甲斐です。

 体育会の練習ではたくさんの体調不良者を出してしまったことを考えると、練習時間を短くするために、教師からの話は短く済ませ、話を聞く生徒は立ったまま。練習ではある程度整った動きができていれば次々と進めて短時間で終了。こういう流れが必要だと思います。全体練習は基本的に2時間連続で行いました。これまでの学校でも全体練習を2時間連続で行うことが多かったですが、やろうと思えば1時間で済ますことも可能(プログラム的には20分もかからない内容)です。過去の練習時間から「2時間」というのが決まりきっているのでしょうが、それで体調不良者が毎年多数出ているのであれば何かを変えていかなければいけません。


生徒会が活躍することの意味

 私が以前勤めていた中学校では、生徒会執行部の担当を2年間させていただきました。その間に生徒会執行部を中心として生徒会(委員会や部活動も含め)でたくさんのミーティングを行い、体育会などについても話が上がるようになっていました。

 私が今勤めている中学校もそうなのですが、以前に勤めていた中学校も徒競走が中心で、走るのが苦手な生徒がもっと楽しめる体育会にしたいという思いが多くの生徒の中にありました。しかし、そういった思いがあっても、体育会の運営は教員が中心になって行っているため、前年踏襲の形で長年行われており、これに対して生徒が意見を出して体育会の内容を変えるという状況ではありませんでした。

 そんな状況に変化を生んだのが、生徒会の集まり(執行委員会)です。ここでは委員長や部長、生徒会執行部が集まり、教師もある程度の人数が参加します。生徒が中心の場なので、学校の改善点についてどんどん意見が出ます。その中で、体育会の競技についても意見が出て、徒競走中心のプログラムの変更案が次々に出されました。これによって生徒会執行部も変更に向けて動き始めたのですが、教師の権限が大きい学校だと簡単には変更には至りません。しかし、そういう生徒の活動を見ている教師もいるわけで、やがて教師が触発される形でプログラム変更を実現しました。

 生徒の主体的な活動がすぐに実を結ぶわけではありませんが、小さなアクションからでも良いので起こしていくことが大切で、そのアクションを起こすきっかけ作りが教師には求められていると思います。

 生徒の力を信じて、主体性を生かしていくと学校の雰囲気は生徒が充実した学校生活を送られるものになっていきます。下の写真は体育会の入場門ですが、この入場門はこれ以前はただの白い門で第◯回体育会の文字が書かれているだけでした。美術部と生徒会執行部が協力して入場門をリニューアルしました。この翌年には退場門(以前はただの棒でした…)も作成しています。入場門の数字は年によって付け替えが可能になっており、先数十年分まで作成しました。100回を迎えるときにみんなで集まろうなんていう話もしましたが、こういう門になると色々な思いも詰まるものです。

 入場門は体育会を構成するパーツとして非常に重要な位置付けのはずですが、大したものとして考えられていなかったのが実情です。生徒にどうしたいか尋ね、やりたいことを実現できるようにサポートする。そういう活動は生徒はもちろんのことですが、教師にとっても楽しいことなので、積極的に生徒の主体性を刺激する教育活動を考えていきたいものです。



 最後まで読んでくださってありがとうございました。今回は体育会について考えたことをつらつらと思いついたままに書きましたので、無駄に長い文章になってしまった感もありますが、とりあえず考えたことを文章としてまとめておきたかったのでこのような形になりました。このような内容でも読まれた方に何か参考になるものがあれば幸いです。

 またこれからも美術や主体的な学習、ICT教育などに関して研究や実践したことを記事にしていきますので、どうぞこれからもよろしくお願いします。

 それではまた!

 

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