生徒の姿から学ぶ 〜非認知能力に焦点を当てた教育〜

  今回は個人的な備忘録的な内容になります。ただ、教育において非常に重要だと改めて考えるようになったことを記しますので、何か参考になるものがあれば嬉しいです。

 卒業式が迫り、少しでも良い形で卒業してほしいという願いから様々な取り組みをして忙しく働いている今日この頃ですが、卒業していく生徒の姿を見ていると、もっと何か彼らのために良い教育ができたのではないかと、色々と反省することも浮かんできます。


非認知能力にもっと焦点を当てる教育へ

 各教科の授業は学校教育の重要なパートであることに間違いないと思いますが、学力以上に心の面での成長が重要であり、明確な数値によって点数化できる認知能力に対して、非認知能力という学力テストでは点数化できないような情緒の面での豊かさこそ教育において最重要と考えなかればいけないのではないかと最近は強く考えるようになってきました。

 私がそもそも美術教師を目指したきっかけも非認知能力の可能性の大きさに気がつき、好奇心や粘り強さ、コミュニケーション能力など、芸術表現で必要とされる数値化するのが難しいながらも確かに存在する力や価値が人生を豊かなものにすると考えるようになったことにあります。私が大学生の時に非認知能力という言葉は聞いたことがありませんでしたが、「生きる力」という言葉は学習指導要領に存在したので、「これこそ学校教育の存在意義だ!」と強烈な共感をもって教育に関する研究を始めました。

 私が大学や大学院で勉強をしていた時代はまだ「ゆとり教育」の時代でしたが、教育現場に出る頃には「脱ゆとり」に舵が切られ、美術の授業時間数は中学校3年間で115時間、大体週1回程度となり、音楽と共に美術は存続の危機とさえ言われるようになっていました。

 時間数が削られるのは芸術教科がその存在意義をしっかり示すことができていなかったことも原因の一つとして考えることもできるかもしれませんが、それでもやはり国数英社理の5教科が基礎学力として重視され、それ以外の教科は学力に直接つながるものではないと考えられて軽く扱われてしまった感じが否めません。

 学校現場でも「高校や大学へ行きたかったら学力をつけなければいけない」と言って大量の課題を生徒に課し、学力を補うために、多くの生徒が学習塾へ通う姿を見てきました。私自身、美術の正規教員になる前までは英語の講師として学校と学習塾を掛け持ちしている時期もあり、少しでも生徒の点数が高くなるように指導スキルの向上を図っていました。ただ、当時からたくさんの問題に取り組んだり、たくさん授業をしたりすることが学力を上げる最優先事項ではないことは気がついていました。言葉を覚えたり、問題の傾向を掴んだり、文法的な構造を理解したり、これらはもちろん学力テストで良い成績を出すためには重要ですが、生涯学ぶモチベーションにまではつながりにくいものです。テストが終わったら綺麗に忘れる。そんな光景をたくさん見ていると、「学ぶ目的とは」「学校教育の目的とは」と考えることも次第に多くなりました。

 結局のところ、好奇心や試行錯誤の伴う粘り強い実践、コミュニケーションの絡んだエピソード性のある記憶など、非認知能力に関連する学習経験がないと、「生きる力」には程遠い「虚しい力」として一時的に身につけ、学習に対するストレスから本来学ぶことは楽しいはずなのに、勉強に対するネガティブなイメージを持つようになってしまいます。そんな状況を未来ある子どもたちに提供するわけにはいきません。

 「ゆとり教育」の反動で詰め込み型教育が復活しましたが、日本の教育も世界に少々遅れはしましたが、主体性を重視した探究的な学びに新学習指導要領のもとでシフトチェンジしようとしています。私が勤務する岡山県の高校では総合的な探求の時間でPBL(課題解決型学習)が中心的に行われており、各々の関心に基づいて探求するテーマを決め、イベントを企画したり、ボランティア活動したりすることを通して社会貢献する意味、そして学習したことを役立てることの重要性について自分事として捉えられる学習活動が広がりつつあります。

 人間は興味さえもてば主体的に学ぶことができるようになり、その学びは人生という長いスパンをかけて深めたり、生き方に反映させたりするようになります。そのことを信じて非認知能力を育てる授業、仕掛けをしていくことが大切だと思います。


時代がようやく追いついた「ゆとりある学校教育」


 非認知能力について考えを深めていくと、改めて寺脇研氏が著した『21世紀へ 教育は変わる 〜競争の時代はもうおしまい〜』は教育の姿について重要な視点で述べていると考えさせられました。彼はゆとり教育の中心的な推進役としてイメージをもたれているようですが、この本の内容は令和の教育が目指す内容と同じようなことを語っていました。この本が出版されたのはもう25年も前の話なのに、ほとんど古さを感じさせない内容であることに驚きました。

 ただ、この本が出された時代はまだインターネットが少しずつ普及している程度であり、ゆとりある学習をするにはあまりにも環境面で不十分だったと言えます。教師のITリテラシーも、当時は課題ある現在の状況と比較しても圧倒的に未熟なものであったことは想像できます。そのような状況では機能不全な新しい時代の教育となってしまっても仕方がなかったと思います。

 しかし、ようやく技術的にゆとりある学校教育が実現できる状況にまでなってきました。GIGAスクール構想によって配備された1人1台ICT端末によって個別最適な学習、今後はAI機能も加わったアダプティブラーニングさえ可能になり、知識や情報を手に入れる苦労がこれまでとは比較にならないぐらい改善します。

 ただ、これは認知能力に関するメリットなので、非認知能力を重視した教育とは矛盾する内容のように聞こえるかもしれませんが、これまで認知能力を獲得するために割いていた時間の多くが非認知能力を育てる時間にシフトすることが可能になると考えられるため、結果として非認知能力を伸ばすことにつながることが期待できます

 私が担当する美術の授業ではこれまで技術指導を一斉指導でデモンストレーションし、一人一人机間指導しながら行ってきましたが、これでは個々のニーズに合わせた技術の獲得が難しくなり、画一的な表現につながってしまいます。一人ひとり表現したいことが異なるのであれば、一斉指導による技術指導ではなく、自分に必要な技術を獲得できる動画から学んだ方が余程効果的です。教師としても一人ひとり違った表現を見取りつつ、困っている生徒には必要なアドバイスをすることで生徒独自の表現を引き出すこともできるので面白いですし、そういう表現を相互鑑賞を通して共有し、世界観を広げていくというアクティブな学びも可能になります。

 自らの理想や好奇心を学習のエネルギーにして、粘り強く試行錯誤し、他者との交わりの中でさらに学習を深めていく。個別最適な認知能力の獲得と、それに基づいた表現や思考活動は自分にとっても他者にとっても学習へのモチベーションを刺激することになると考えられます。非認知能力と認知能力は対の関係ではなく、相互作用によって促進されていくものです。そして、この状況が生まれた時に様々なことに対して「生きる力」として効果を発揮することになることでしょう。


教師こそ非認知能力の獲得を 

 生徒と毎日一緒に時間を過ごしていると、どうしても成績が良い生徒や行動面で明らかに他者に貢献できている生徒に目が向き、賞賛することが多くなります。その逆に勉強にも生活にもだらしない生徒に対しては「指導」という名の教育をしてしまいがちです。明らかに良い活動ができている生徒を褒めたり、そこから刺激を受けて授業や学級経営のモチベーションが上がるというのは望ましいことだと思います。勿論、問題行動を起こす生徒を正しい道に導いていくことも重要な教師の役割だと思います。ただ、ここで頭に入れておきたいのが、だらしなかったり、問題行動を起こすからといって、「排除」の対象として見るのではなく、その生徒の非認知能力を見取る機会にすることが必要だと最近強く考えるようになりました。

 恥ずかしながら、これまでそういう生徒に対して怒鳴るという高圧的な姿勢で対応したことが何度もあります。昔と比べるとかなり改善しましたが、「なんとかしてちゃんとさせなければ」というマインドから、それに反する行為に対して怒りが込み上げてしまう未熟さがまだまだあります。

 しかし、最近になってようやくそのマインドから離れられようになってきました。だらしない生徒、問題行動を起こす生徒でも対話によって深掘りしていくと、やはり何かしらの原因があり、それと「向き合うこと自体」に意味があるということが見えて来ました。だらしない行動に見えても、実はマイペースに何かを考えていて、実はとても優しく人情がある姿が見えてきたり、どうにかして自分を肯定的に捉えたいけれども、色々とうまくいかなくて困っており、自分の存在感を示すために問題となる行動をしてみたり、簡単には片付けられない状況が見えてきます。

 そのような状態の生徒に正しいとされることを指導しても「それができないから困っている」となるので、あまり指導に効果は期待できませんし、効果があったとしても長続きしません。根本的な前進ができるようにするためには、その生徒の心に目を向け、彼らが何を大切にしているのかについて理解する姿勢を見せることが大切だと思います。そして、そこから彼らがもっている非認知能力を見取り、その部分に気がつけるような言葉をかけたり、自信をもたせたりする対話が教師には求められていると最近は考えられるようになりました。こういう生徒と向き合うことを通して学ぶ経験は教師としての非認知能力を培う意味でも大変重要だと思います。

 結局のところ、こちらが焦って結果を求めても良いことにはなりません。ゆっくりではありますが、非認知能力という根本的な部分を大切にすることで、子どもたちは前向きに様々なことに目を向け自分に必要な学びも始めるということを信じて教育活動をしていきたいと思います。


 最後まで読んでくださってありがとうございました。備忘録のような形でつらつらと書いた今回の内容ですが、読んでくださった方にとっても何か参考になるものであれば嬉しいです。

 卒業式が週明けにあります。何だかんだ気が付けばもう36歳。もう中堅と呼ばれる時期に入っており、3年生を担任する機会もこの先あまり多くはないかもしれません。卒業式を担任として迎えられることに感謝です。こんな言葉の使い方は正しくないかもしれませんが、卒業式の日は非認知能力をMAXにして臨みたいと思います。

 それではまた!



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