生花の美から美の本質について考える
3月から4月の時期は生花が色んな場面で使われ、その美しさに魅了されます。教師をしていると、卒業していく生徒から花束をもらったり、卒業式や入学式で使われて用済みとなった花をもらう機会があったりで、この時期は家によく生花があります。
私自身は花について詳しいわけではないのですが、多くの人に当てはまると思いますが、生花や盛りを迎えた桜、躑躅、ユキヤナギなどを見るとすごく心地よい気分になります。そして、枯れたり散ったりする花を見るのも風情があって美しいと思います。
この時期は花を目にすることが多いため、その美しさの根本にはそもそも何があるのか、ふと考えてみました。そうすると、美の本質として他の様々なことに通じる大切なことが見えてきたので、今回自分の考えをまとめるために記事を書きました。
生花と造花の美の違い
実は私、学生時代以前はそれほど花に興味がありませんでした。満開の桜や躑躅、花瓶に立派な花が生けられているのを見て綺麗と思うことはもちろんありましたが、自分の生活に必要性を感じることはなく、たとえ自由に花をもらっても良い状況であったとしても花を持って帰るようなことはありませんでした。花を持って帰ってもゴミになるだけとさえ思っていました。
しかし、大学4回生の時に美術に目覚め、それ以来、研究と実践を繰り返す日々を送っている中で、見かけだけでは測ることができない美の価値というものについて考えるようになりました。おそらく、美術に目覚めることがなければ、いつも変わらぬ美しさを保つ造花の方が生花よりも「価値あるもの」と頑なに考えていたのではないかと思います。
生花と造花の美しさは見かけ上はそれほど大きく変わらないと思います。造花も100均のものであれば少しチープな感じがしますが、本物と見分けがつかないぐらいに精巧なものもあり、率直に綺麗だと思います。
生花はその点、暫くの間は綺麗ですが、次第に花が枯れて、最後は処分しなければいけません。枯れて汚くなった色の花と、いつも分からぬ鮮やかさを保つ造花。比較の対象が花のピーク時の彩度や花びらの張り具合であると圧倒的に造花が優秀となってしまいます。しかし、生花の美しさは単純に花のピークの色や形だけで判断できるものではなく、その点こそ造花との決定的な違いになると思います。生花の美しさを考える上で、綺麗な状態が続かないことは極めて大事な部分であると言えます。
栄枯盛衰、盛者必衰は古典や多くの文学でテーマとして扱われてきました。そういった文章を読んでいると、盛りの状態は有難いものであり、衰えていくことは寂しく辛いことであると同時に、また次の代にバトンタッチすることであったり、新しい生命の誕生の肥やしになったりと、盛りの時には見られなかった価値を発揮することにもなります。生花の美は、変化するからこそ生まれる多面的な美しさであり、盛りの花を見ながら、今しか見られない有難みを感じたり、ピークを過ぎて花が元気を失いつつあるからこそ応援したくなるような感情を抱くからこそ造花では得られないような感動があるのではないでしょうか。
個人的な話になりますが、桜は満開も綺麗ですが、桜吹雪で一気に散る姿はそれ以上に感動的です。「また来年会おう!」そんなメッセージを桜と交わしているような気持ちにさえなります。ドラマティックなストーリ性が生き物に潜在する美の可能性であると思います。
この世の全てに宿る美の本質
この内容について論じると、壮大な論文になってしまうので、今回は生花の美から簡潔にまとめてみようと思います。
今回、生花と造花を比較して話を進めてきましたが、どちらの方が美しいかを判断することはそもそもできる問題ではないと思います。生花には生花の、造花には造花の良さがあるわけで、そんなことは誰もが何となく分かっていることだと思います。単一の基準でどっちが美しいかを判断すること自体がナンセンスです。
枯れることにネガティブなイメージがあると、生花は造花よりも劣った存在になります。しかし、枯れるからこそ寂しさや命の儚さ、盛りの時期に強く有り難みを感じるといったドラマがあり、そういった可能性を考えると枯れることをポジティブに考えることもできます。ドライフラワーにすることができるのも生花の分かりやすいメリットです。花ではありませんが、落ち葉もモノトーンでとても美しく、天然のドライフラワーのようになります。
大切なことは、状況に応じて美の基準は変化するということであり、この世にある全てのものにある種の美が宿っているということをマインドセットにしておくことだと思います。この世の中に存在するものは、必ず誰かや何かにとって必要とされる美点があるからこそ存在しています。今は存在しない恐竜が人々を魅了し続けているように、たとえ地球上から存在しなくなったとしても、強烈に価値を放ち続けるものもたくさんあります。
何か特定のものを美しいと思うこと自体は良いことですが、それ以外のものに対して美の基準を同様に当てはめたり比較したりして優劣であったり善悪を考えたりすると、争いは絶えませんし、そのような争いが何も解決を生むわけではないことを歴史は証明しています。
完成作品に囚われる必要はない
美術教育をしていると、ついつい作品の完成度を上げるために生徒に指導を入れてしまうことがあります。最近は生徒の主体性に任せて制作をサポートすることに集中していますが、昔は「〜した方が完成度が上がる」という私の完成度の価値観を刷り込むような指導をしたこともあります。様々な技法や素材の活用について、生徒に情報提供することは重要ですが、作品のどの段階が完成であるかを決めるのは制作者自身です。教科書や美術資料には数多の偉大な作品が載っているので、それを参考にすればどんなことが表現できるのか生徒はイメージできます。実際に、生徒が主体的に制作をしていると、見たこともないような驚きの表現をたくさん見ることができます。つまり、教師が勝手に完成の尺度を決めて、それに基づいた完成作品に囚われること自体が大きな過ちとなります。
また、生徒自身も美術の学習において作品の完成に囚われる必要はないと思います。美術の学習は他でもない美術を通じて美的判断能力を培うことが目的であり、立派な完成作品を作ることではありません。完成作品に囚われて挑戦を遠慮してしまうとせっかくの良い学びの機会が失われてしまいます。色や形が自分のイメージ通りになった瞬間が生花で言うところの盛りの状態であるとすれば、挑戦した結果、イメージ通りの状態からやや本人の中では失敗したと言えるような状態は、次のサイクルに向けて花が衰えて朽ちた状態と考えても良いと思います。朽ちて肥料になるからこそ、また新たな美が生まれます。
美術の学習の場合、完成作品に囚われて挑戦を止めてしまうと、多様な美を作り出すことが難しくなってしまいます。ずっと同じ美しさの品質を保つことも悪いことではないかもしれませんが、長期的に見るとあまりポジティブな状態であるとは言えないと思います。身の回りの変化に合わせて自分自身も変化していくことが大切です。それは教師も同じですね。
最後まで読んでくださってありがとうございました。今回は生花の美から美の本質について考察してみました。生花は変化があるからこそ美しく、捨てる時にはお別れの切ない気持ちにもなり、ちょっとした出会いと別れの感動イベントを作り出してくれます。
生花が家にあると毎日良い気分になれるので、それだけでもとても意味のあることです。これからも花のある生活をなるべく送って心身ともに元気に過ごしていきたいと思います。
それではまた!
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