主体的な学習に基づかない宿題の弊害


  今回は「宿題」について私の考えを述べます。なぜこのようなことをテーマにしたかというと、教師が宿題に期待することとは真逆の結果に繋がってしまう可能性があるためであり、少しでも主体的な学習者の育成に対する宿題の在り方についてこれまでの常識にとらわれることなく考えることができる人が増えて欲しいという思いがあるためです。

 ただ、これから述べる内容はあくまで私の一意見であり、宿題の在り方について絶対的に正しい考えなど存在しません。参考程度に読んでもらえたらと思います。


主体性が生かされないものを評価できない

 新学習指導要領ではこれまでの観点別評価「関心・意欲・態度知識・理解技能思考・判断・表現」から「主体的に学習に取り組む態度知識・技能思考・判断・表現」に変更され、特に「主体的に学習に取り組む態度」というものが大きな変更点であると言われています。関心・意欲・態度と決定的に違うのは、「主体性」が加わっているところです。関心・意欲・態度という評価の観点では授業を真面目に受け、教師の話をしっかり聞いているかということや、提出物を出せているかといった教師の都合で評価が決まってしまう傾向がありました。「点数は取るが、授業中の態度が太々しく、話を聞かずに勝手に資料集を見ており、提出物に取り組まないので関心・意欲・態度の評価はC」という評価がされ、通知表に(AAAC)という表示が入っているものが以前は普通にありました。

 しかし、そもそもを考えると、そういう生徒が生まれてしまうような授業や課題の設定をしていること自体に欠陥があるわけであり、それが「主体的な学習態度」となると、生徒が主体的に取り組める設定を教師が用意しなければいけなくなります。つまり、生徒が主体的に取り組めているかどうかは教師自身の問題でもあるということです。主体的に取り組めていない生徒を見たら、そういう生徒が主体的に取り組めるように授業改善に努め、教師と生徒が一緒に授業をより良いものにしていくことが求められているのが令和型の学校教育の姿であると私は理解しています。

 前置きが長くなりましたが、そのような主体的な学習がテーマとなった時代において、宿題の在り方とはどうあるべきなのか述べていきたいと思います。

 

学習者の主体性が発揮される宿題かどうか

 学習者の主体性に基づかない教師側からの一方的で一律的な宿題を出し、それを評価することは基本的にできないようになっているのが今の観点別評価のシステムです。宿題ということはそもそも本人が取り組んでいるかどうかが分かりませんし、宿題が学習者がやりたいと思っていないような内容である場合、それを主体的な学習として評価することはできません。

 しかし、もし宿題に提出点という謎の評価がついていると、それを学習者は出さざるを得ない状況になってしまいます。何度も言っているように、学習者が主体的に取り組めないものを評価することはできませんし、そもそもそのような課題を提示すること自体が指導のアプローチとして問題があります。

 ではどのような宿題が主体的に取り組めないものに当てはまるかというと、基本的には全ての宿題がその可能性を持っています。「みんな絵を描くのが好きだから絵を描く宿題を出す」「100マス計算はみんな一生懸命やっているから宿題としてOK」「漢字なら誰でも書けるから大丈夫」と考えるのは教師の傲慢でしかありません。たとえ授業中に多くの学習者が一生懸命、楽しく取り組めていたとしても、それが一律全員に「強制的に」宿題として提示されたら授業で見られた主体性を失いかねません。授業外でやりたいことは人それぞれです。授業中は決められた時間ゆえに頑張ることができても、いきなり「いつも絵を楽しそうに描いているから宿題でたくさん絵を描いてきてください。どうぞ主体的に楽しんでくださいね」なんて言われたら、多くの人は戸惑ったり不愉快な気持ちになると思います。そもそも強制しているわけなので、主体的とは言えません。

 宿題を「主体的な学習態度」として評価するのはこのような点からできません。しかし、私は決して宿題を出すこと自体を否定しているわけではありません。問題なのは宿題に提出点をつけて強制的にやらせることにあります。もし、宿題をやるかやらないかは本人裁量となれば、何の問題もありません

 私が高校生の時、毎日英語の先生が「Step by Step」という英語の演習問題プリントを宿題用に出してくれていました。これに取り組むかどうかは自由です。私は、中学校時代は英語が一番苦手で提出物のワークにもほとんど取り組まないような状態でしたが、この英語の先生の熱心な指導で頑張ってみようと思うようになり、この毎日出される「Step by Step」は文字通り毎日コツコツ取り組み、英語が一番得意な教科になりました。

 宿題を出すことによって、主体的な学習に火がつき、油を注ぐことになることもあります。やるかどうかは学習者次第。このマインドセットを教師が持つだけで宿題の在り方は根本的に変わると思います。そして、そのために少しでも多くの生徒が「やりたい」と思えるようなもの、宿題というよりも、家庭学習の機会を教師がクリエイティブに考えて提供することが大切だと思います。


おさえておきたい強制的な宿題の弊害

 宿題が強制的なものである場合、様々な弊害が起きる可能性があります。これまで生徒が目の前で苦しむ姿からたくさんの考察をする機会が幸か不幸かありましたので、以下のようにまとめてみました。


1. 学習意欲の低下

 学習者が宿題に自主的に取り組む意欲が低下する可能性があります。一方的に与えられる宿題は、学習者の関心やニーズに合わない場合があり、それによって学習への関心やモチベーションが減退することがあります。

 中学生の中には「自主勉強が好き」という割合は一定数いますが、学校や塾の宿題が多いため、自主勉強をする余裕がないというケースが目立ちます。強制的な課題はメンタルに悪影響を及ぼす可能性が大きく、何とかやり終えても疲労感があるため、その後に自主勉強に取り組もうとする強靭なメンタルを持っている人は僅かです。モーレツサラリーマンが家に帰ってからモーレツに勉強したくてもできないのと似ていますね。この弊害はかなり悪質なものですし、この部分に全てが集約されていると言っても良いとさえ考えています。元々人間は主体的に学ぶ存在であることは「どうして攻撃」を大人にしてくる幼い子どもたちが示しています。


2. 反発心や抵抗感の醸成

 学習者が自分自身の学習に対して意見や選択の権限を持てない状況では、反発心や抵抗感が生じる可能性があります。学級担任をしていると、宿題の多さに対して不満を聞くことがよくあります。逆に「宿題?全然大したことないよ〜♩」みたいな反応はあまり見たことがありません。

 学習者は自己決定の機会を持つことで、より主体的に学習に取り組む傾向があります。強制的にしかも大量に宿題を出すことは教師自身の首を絞めることにもなりかねません。 


3. 学習成果の低下

  宿題が学習者の関心やニーズに合わない場合、効果的な学習が妨げられる可能性があります。学習者が自主的に学び、自身の学習スタイルやペースに合わせて取り組むことで、より良い学習成果が得られることがあります。

 当たり前のことですが、やりたいと思っていない宿題に取り組む状況ではまともに知識も定着しません。学習内容が自分事であるかどうかは極めて大切であり、学びの動機づけとして授業での充実した学習体験が基盤になりますが、それが学習者に丸投げの状態になっていては大した成果も期待できません。


4. 無駄な時間の浪費

  学習者が関心を持たない宿題に時間を費やすことは、学習時間の浪費につながる可能性があります。その結果、本来重要な学習や他の興味を持つ活動に割く時間が減少し、学習の幅や深さが制限されることがあります。

 これに関して、よく見られるのが授業中に他の教科で出された宿題に一生懸命(答えを写しながら)取り組んでいる光景です。これは授業内容が頭に入らないだけでなく、宿題もやっつけ仕事になるのでダブルで悪質です。

 強制的な宿題がこのような状況を作り出すきっかけになっているということを考えることができれば良いのですが、この様な内職をする生徒を発見した時の教師の指導は「授業中に他の教科の宿題をするのはダメです!」というのが一般的で、そもそもそういった行為のきっかけが教師にあるということを見過ごしてしまっていると思います。

 残念な事実をある研究結果に基づいて言うと、人間はやらなければいけない仕事が大量に残っていると、それだけで頭の容量を消費するだけでなく、睡眠の質を悪化させ、ストレスレベルも高くなるため、学習効率が根本的に下がります。各教科で宿題を少しずつ出したとしても、それが積もれば大量になります。強制的な宿題を課す教師は生徒をそのような課題地獄に追い込んでしまっているということを認識する必要があります。


 以上のことをまとめると、学習者の主体性を尊重し、個別のニーズや関心に合わせた宿題の設定や柔軟な指導方法が求められます。教師は学習者とのコミュニケーションを通じて、学習者の意見や要望を把握し、宿題の内容や方法について適切な調整を行うことが重要です。また、学習者に自己決定の機会を与え、学習の主体性を育む環境を整えることも大切です。

 おそらくほとんど全ての教師にとって、学習者が宿題に取り組むことを通して点数が取れるようになり、勉強が好きになって欲しいと考えていると思います。しかし、それが逆目になってしまうのが「強制的な宿題」であることを考えていかなければいけません。


 最後まで読んでくださってありがとうございました。今回は「主体的な学習に基づかない宿題の弊害」ということで、宿題は学習者の裁量で取り組めるものであり、学習意欲を高める可能性のあるものであればメリットさえありますが、それが「強制的」なものになると逆効果になる危険性が高いということについて私の考えを述べました。今回の内容が宿題の在り方についての一つの考えとして受け止めてもらえるとありがたいです。

 ちなみに、多くの人が嫌がる宿題として漢字や英単語の練習がありますが、こう言ったものも工夫次第で主体的に取り組むことができるようになる可能性はあります。そういった視点を学びのプロである教師として大切にしていきたいと思います。

 それではまた!

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