これまでの研究と実践のまとめ
今回はこれまでの私の美術教育の研究と実践をまとめました。夏休みの自由研究のようなものですね。少々大袈裟かもしれませんが、美術教師としての節目になるまとめができたと感じています。これまでは主に美術の授業としてのクオリティーを追求して取り組んできましたが、今後は生徒が学校に囚われないレベル(学校が地域社会の一部として開かれた場所になりPBLが当たり前の状況になれば話は別ですが)での創造的な活動に挑戦できるような教育に力を入れていきたいと考えています。そのためにも、これまでの取り組みをまとめ、自分にとって有意義な言語化を図りたいと考えた次第です。
このように考えるようになったのも、私自身が考える美術教師としての究極の目標は生徒が美術を学ぶことを通して、美的感覚を働かせて主体的に行動し、幸福な人生を歩む素養を培うことにあるためです。中学校美術の学習指導要領にも「表現及び鑑賞の幅広い活動を通して,造形的な見方・考え方を働かせ,生活や社会の中の美術や美術文化と豊かに関わる資質・能力を次のとおり育成することを目指す。 (1)対象や事象を捉える造形的な視点について理解すると
ともに,表現方法を創意工夫し,創造的に表すことができるようにする。 (2)造形的なよさや美しさ,表現の意図と工夫,美術の働きなどについて考え,主題を生み出し豊かに発想し構想を 練ったり,美術や美術文化に対する見方や感じ方を深めたりすることができるようにする。(3)美術の創造活動の喜びを味わい,美術を愛好する心情を育み,感性を豊かにし,心豊かな生活を創造していく態度を養い,豊かな情操を培う。」という美術教育の目標が示されています。私は豊かな情操を養った先に、情操を働かせた「行動」や「幸福」もあると考えています。そもそも、学んだ経験が行動や幸福に繋がっていなければ、情操が培われているのかどうかもよくわからないので、そのような状況を確認できるようにするまでが学校教育の目指すところとして位置付けても良いと言えるのではないかとさえ思います。
美術教育をしたことで自然と情操は養われていく部分もありますが、その部分の手応えが教師側にあるかないかでは大きな違いがあると思います。美術を愛好したり、豊かな情操を養ったりというのは究極の目標でもなんでもなく、これが最低限のミッションであると考えたいところです。なぜなら、美術で培ったことを主体的に自分の人生に生かしていくことができれば、さらに充実した経験ができるため、愛好する心情や情操が養われる好循環が生まれると考えられるためです。できれば、その好循環のもたらす結果の一部でも教師として見届けることができればこの上ありません。それゆえに、美術の授業、教室の中だけでの学びに生徒を閉じ込めておくことが非常にもったいないことであり、現実世界との強烈な相互作用の機会を逃したまま大人になって「かつて学んだ美術」という扱いになることが大きな損失であると思います。挑戦したい生徒には遠慮なく挑戦できる環境、挑戦するにはまだ勇気がないけど、とにかく創造的な活動を楽しみたいという生徒にはとことん創造活動に取り組める環境、そういった個別最適な学習環境の在り方を探っていきたいと思います。
今回、前半で主体的な学習の意義について、実践してきたことを基に説明し、主体的な学習の可能性とはいかなるものであるかを考察しています。そして後半では主体的な学習の基盤として遊びに潜在する創造的な可能性とそれを学びと一体化させるポイントについて考えました。
今回の内容をまとめると以下のようになっています。
1.教育の大前提は主体的で対話的な学習
2.主体的な学習の意義
①個々の可能性を最大限に生かす
②教師の想像を超える学習
3.教師と生徒が共に主体的に学ぶ環境の基盤としての「遊び」
4.遊びと学びを一体化させるために
①安心して挑戦できる環境
②PBL(課題解決型学習)
③サプライズパーティー
5.遊びと学びが一体化した先に
6.教師が生徒から学べる状況
7.遊びのある学習環境のために必要なマインドセット
かなり項目が多いですが、なるべく端的にまとめる努力をしましたので、読んでもらえたら嬉しいです。
1.教育の大前提は主体的で対話的な学習
美術教育云々の前に、大前提として教育は主体的・対話的で深い学びを基盤にして考えることが重要です。これは学習指導要領にもかなり強調されて記されている内容ですし、そんなことはわざわざ言うまでもないことかもしれませんが、これを実践していく上で「誰の都合を重視するか」という点では、教師の中で価値観に違いがあると思います。授業の主役を教師と考えるか、それとも生徒と考えるかで授業のアプローチは大きく異なります。
教師が主体性をもって授業に取り組むことはもちろん大切なことですが、授業で一番大切にしたいことは生徒の主体性であり、教師は生徒が主体性を発揮して学べるように学習をファシリテートしたり、より良い学びの環境をコーディネートすることが必要になります。それはつまり生徒の都合を優先した授業を意味します。生徒が主体性を持って学習に取り組み、自分自身の感覚を生かしながら対話的に学び、内容を深く理解していく状況は、教師の都合で一方的に教えられる授業よりも生徒が学習活動を自分事として捉えられる可能性が高くなるため、自然と学びが深く広いものになっていくと考えられます。VUCA(Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性))と呼ばれる変化が激しく、予測困難な世の中であるからこそ、主体的に自分事として学び、自ら逞しく状況を調整(デザイン)したり、創造(アート)したりする力が生き生きと自分が納得できる形で「生きる力」につながっていきます。
2.主体的な学習の意義
ここで主体的な学習の意義について要点を整理しておきます。これには2つの視点があると考えています。1つは主体的な学習によって、個々の可能性が最大限に生かされるということです。主体的な状態というのは「他に強制されたり、盲従したり、また、衝動的に行ったりしないで、自分の意志、判断に基づいて行動するさま」を意味しており、やりたいと心から思って学習に取り組む状態こそ「主体的な学習」と言えます。サッカーで活躍した中村俊輔選手や本田圭佑選手が練習後もひたすら居残りでひたすらFKの練習をしていたという話は聞いたことがある人も多いと思いますが、主体的な学習者は授業や練習時間に関係なく、未知の世界への冒険やトレーニングを続けようとします。科学的には休んだ方が練習効率が良くなる可能性が高くても、本人のやる気スイッチが入っているのであれば、その思いのままに行動することもあります。行動基準は本人が納得できるかどうか、満足しているかどうかになります。
主体的な学習者は本人が納得するまで学習に取り組み、個々の必要に応じて可能性を最大限に伸ばすことにつながる考えられます。科学的に根拠のある「客観的なアドバイス」が他者からあったとしても、それを参考にするかどうかも主体的な学習者である本人次第です。たとえ効率が悪い取り組み方をして、タイムパフォーマンス的に最大限の成績や結果が得られなかったとしても、主体的に取り組んだ中での学習者の経験は豊富なものになるため、また別の時にその経験が生かされることもあり、そのような観点から主体的な学習は「可能性を最大限に伸ばすきっかけ」になると私は考えています。
2つ目の視点は、教師の想像を超える学習が可能になるということで、これには教師にとっても生徒の主体的な学習から得られることがあることを意味しています。教師がイメージできる想定内の学習は言ってしまえば「教科書通り」の学習をしているだけであって、学習の深まりと広がりが十分ではありません。中学校1年生で指数は習いますが、指数関数は高校の内容になります。もし、生徒が指数が世の中の現象を捉える際にどのように活用ができるかを考えると指数関数の知識が必要になるケースが想像できます。もし、授業で「指数関数は高校で学習するものです。受験に出題されない指数関数は知らなくて良いです」と言われたとしたら一気に指数に対する興味は萎みかねません。掛け算を省略するただの小さな数字という認識にしかならないでしょう。しかし、もし細胞分裂が指数と関係することに気がついた生徒がいれば、その現象を指数関数を利用して検証するという学習があっても良いわけで、指数関数の概念を理解するために高校数学の勉強に取り組んだ上で細胞分裂に関する研究をするかもしれません。このように、主体的な学習では教師の想像を超えた学習が行われる可能性も考えられます。
以上の2つの視点をポイントに、美術における主体的な学習の意義について詳しく説明していきます。
①個々の可能性を最大限に生かす
私は美術室に素材コーナーや道具コーナーを用意し、「マナー良く使う」ことさえ守れるのであれば自由に使っても良いことにしています。素材コーナーには、普通ならゴミにしてしまうような身の周りの様々な素材や、生徒が自分で用意した素材で使いきれずに余ったものが色々と集まっています。道具コーナーは教室内にたくさんあり、スパッタリングのセットやボンド、粘土ベラ、彫刻刀、カッター、ニードル、グルーガン、UVライト、ドライヤー、墨汁、クレヨン、クレパスなど制作で活躍する道具を使えるようにしています。
素材や道具が自由に活用できると、生徒の表現は多様化します。そんなことは当然のことですが、この「自由に活用できる環境」を用意できるかどうかが極めて大切で、学校の状況にもよりますが、基本的には道具や素材を適切に使い、「使ったら元通りにする」ことを伝えるだけで十分です。わざわざ細かい説明をする必要はありません。ただ、「マナーが悪い使い方をした場合は指導が入り、自由に使えなくなる可能性もある」ということは前提にしています。
この道具使用の考え方はクラーク博士の考えに影響を受けました。クラーク博士は札幌農学校の教頭として明治政府から招待され、学校設立にあたり、校則について意見を求められた際、「Be gentlman(紳士たれ)だけで十分だ」と答えたそうです。この学校の生徒はほとんどが没落した武士階級出身で、生徒の状態としてはかなり荒れていたにも関わらず、生徒を一人の紳士として認め、行動を縛りつける校則が不要であると考えたクラーク博士。この生徒を信頼する姿勢があれば、細かなルール設定は不要で、むしろそのような縛るものがあると相手に対して「信頼していない」と受け取られかねないサインとなり、生徒のメンタルに悪影響を及ぼしてしまうことも考えられます。道具や素材は自由に使ってその価値を体験できるからこそ、良い使い方もできるようになるものです。そのような考え方で自由に使う「学び」の機会を設定しています。
ただし、問題が発生した時には決して放置せず、それも学びの機会として指導に生かすことが大切と考えています。マナーの悪い使用がどのようなことにつながってしまうのかを考えさせ、そうならないようにどうすることが大切なのか、マナーとは即ちどのような本質をもったものなのか、そういったことを自分の頭で考えてもらえるように問いかける機会を大切にしています。目の前で生徒がマナー違反と言える行為をしているのを見かけたときもすぐに叱るのではなく、対話的な指導で、なるべくメタ認知につなげられるようにすることが大事です。
私もまだ未熟ゆえに、つい声が大きくなって叱ってしまうこともありますが、感情的に叱ると相手も感情的になってメタ認知の妨げになってしまいます。感情的に叱られると、表面的には確かに行動が収まっているように見えますが、深層心理のレベルでは「叱られた」「怒られた」ことに対して無意識的にストレスを抱えることになり、「頭では分かっているのに行動が伴わない」という現象につながりかねません。それに対して、メタ認知によって自分の行動がどのような意味をもっているか、どうしてそうしてしまったのかを言語化することができれば、すぐに行動が変化するわけではないと思いますが、自ら行動をコントロールする力がつくきっかけにはなると考えられるため、メタ認知の機会にできる問題は積極的に活用していきたいところです。
素材や道具が自由に使える状況であれば、それらを活用して色々と表現を試してみたくなるものです。そのために生徒に購入してもらっているスケッチブックは便利ですが、それ以上に思い切って実験できるのが大きな段ボールパネルです。私が勤務する倉敷市では2月に「倉敷っ子美術展」という図画工作や美術の授業で制作された作品の展覧会があり、各学校に作品展示に活用する段ボールパネル(180×90cm)が3〜6枚配布されます。この段ボールパネルは作業机と同じサイズなので、いつでも自由に活用できるようにセットしています。ここでスパッタリングの練習や粘土を活用した表現など、スケッチブックではサイズや構造的な制限があってやりにくいようなことでも試せます。スペースも大きいため、この場所で制作をする生徒もいますし、共同作品を制作したり、協働作業したりする場所としても利用されています。
GIGAスクール構想によって整備された一人一台端末(私の自治体ではChromebookを利用)は生徒が自分のペースで必要な情報を活用することを可能にしました。しかし、端末さえあれば生徒は自分の力で必要な情報を自由自在に利用できるかというとそういうわけでもなく、端末の可能性を生かすために教師が参考にできる動画や資料の環境を整えておくことが大切です。私は自作の動画を使って技法や作業方法を生徒が自分のペースで学べるようにしています。Googleクラスルームを活用すれば、動画の共有は手軽にできますし、YouTubeの動画もGoogleクラスルームを活用すれば広告なしで見ることが可能になります。動画教材が手軽に使えるようになったことで生徒は自分に必要な技術を容易に獲得できるようになりました。また、資料もフルカラーで提供できるようになり、多様な情報と紐づけることも可能になったため、生徒はChromebookさえあれば一人でも学習が進められる環境を提供することができるようになりました。
私の自治体では生徒の端末ではYouTubeは基本的には視聴できない設定になっていますが、主体性や個別最適な学習を目指すのであればYouTubeが制限されているのは好ましい状態と言えません。教師も含めた全体のICTリテラシーが上がれば、YouTubeを制限する必要もなくなり、参考になる動画の情報共有によって、より良い学習環境が教師と生徒の協働によって実現していくと考えています。
「個々の可能性を最大限に生かす」ために大切にしているもう一つのポイントは「自分事として挑戦できる仕掛け」で、生徒自身の興味・関心に基づいた学習活動ができるように、ブレーンストーミングやマインドマップ、自動記述法(オートマティスム)といった、自分の内面が言語化される活動を制作に取り入れています。
私は意図的に題材設定を抽象度の高いものにし、制作前に具体的な完成作品が想像できないものになるようにしています。例えば、私が実際に取り組んでいる題材名を少しあげると「空想絵画(絵画)」「自分を生かした形(立体)」「クラフトデザイナー体験(工芸)」「グラフィックデザイナー体験(デザイン)」というものがありますが、これらから完成作品を想像することは難しいと思います。基本的に何をつくるかは生徒が考えることであり、題材設定は生徒が快適に学習ができるようするためのきっかけづくりにすぎないものとして考えています。
それゆえに、生徒が制作のテーマを考える仕掛けが大切になります。ブレーンストーミングやマインドマップ、自動記述法をすると、自然と生徒自身の世界観が生かされるようになるため、制作が自分事になりやすいです。自分が言語化した内容をそのまま制作の主題にして取り組むため、作品は多種多様な形や形式になります。絵画、立体、デザイン、工芸の判断が難しくなる作品も少なくありません。
教師側から強制的に制作するものが決められてしまうと、自分が本当に制作したいものに取り組める可能性が低くなってしまいます。本当は自分らしさを出すために水墨画をしたいと思っていても、「色を使わないと成績をつけられません」といった教師都合が押し付けられてしまうと、自分らしく個性を発揮することなどほぼ不可能です。
これに関しては私自身、過去を振り返ると反省することだらけで、昔は工芸で「ペーパーナイフ」を題材にしてしまったがゆえに形自体は面白いものができていても、それが本当に生徒の作りたかったものかというと怪しいと言わざるを得ないものが大量に生み出されていました。これではまずいと思い、靴べらやバターナイフなど選択肢を増やしましたが、これも本質的には変わりのないことでした。幸いなことに木を彫刻したり、サンドペーパーで磨いたり、ニスで仕上げたりすること自体は多くの生徒に楽しんでもらえていましたが、工芸という生活と結びついた文脈で「自分事」として工芸作品を制作できた生徒はあまりいなかったように感じています。そんな中、ある生徒が余った木材でスプーンやアクセサリーを制作したものを見せてくれた時に、「本来はこうあるべきだった」と強烈な発見をすることができ、とことん自分事にできるようにする仕掛けが授業の在り方として大切であると考えるようになりました。
そもそもの話ですが、美術の教科書を見ると木の工芸に関してのページがあり、多種多様な工芸品が紹介されているように、木材だけ用意して、あとは生徒に「何が作りたいか」を問えば良かったわけです。何もない状態でいきなり木材だけ渡しても良いことにはなりそうではないですが、教科書や美術資料といった良質な資料を参考にしたり、生徒自身に作りたいものをよく考えさせたりして、工芸へのイメージを耕しておけば自ずと「個別最適な」制作が行われていきます。
「個々の可能性を最大限に生かす」ために以上の2つのポイントを大切にして教室環境や授業をデザインしていくと個別最適な学習が可能になり、そのような学習状況では楽しさや満足感が自然と生まれていきます。また、生徒自身が目標とする制作や学習も可能になるため、学習活動に意味を見出すことが可能になります。ハーバードビジネススクールのアーサー・ブルックスによると、「幸せ=楽しさ+満足感+意味」と述べているように、個々の可能性を尊重し、最大限に発揮できる環境を整えることは生徒が授業で幸福感を得られることにつながると考えています。
そもそも、学校教育というもの自体が、生徒一人一人の幸福に貢献し、生徒も幸福の在り方について体験を通して学ぶことが大切です。学校に行くことを考えるとワクワクし過ぎて夜も眠られない状況を目指して教育をデザインしていきたいところです。
②教師の想像を超える学習
しかし、完成作品が枠にすっぽり収まった教師の想定通りの学習活動というのは、本当の意味で生徒にとって主体性を発揮できるものではないと考えています。なぜなら、例えば水彩やデッサンの知識や技術を学び、これらを生かした制作をしていると、それらだけでは表現に限界があると感じ、他の画材や技法と融合させて、新しい表現方法に挑戦したいと考える状況も考えられるためです。そのような時に、「水彩だけで描きましょう」「形や陰影のバランスを崩してはいけません」といった教師都合の枠に収められてしまうと、生徒の自由な創造力を発揮する機会が奪われてしまいます。
デッサンや水彩の知識や技術が学べていることを見取ることさえできれば、学習目標は達成できているわけであり、そこから生徒が主体性を発揮して表現を自由に発展させていっても何の問題もありません。評価云々という話をするのであれば、指導と評価の一体化さえできていれば水彩画として十分なものが描けている時点で評価できますし、その水彩画にクレパスを活用してバチックの表現が加わったり、コラージュされたりしても水彩画の評価を落とすべきではないと思います。生徒が表現したいものがあるにも関わらず、教師のイメージする完成作品の枠に収まる制作で縛ると当然完成作品はどれも同じようなものばかりになり、鑑賞する際のポイントも「上手に表現できているかどうか」が重視されやすくなってしまい、鑑賞するポイントが狭く絞られたものになってしまいます。
このような枠に囚われた制作にならないよう、題材設定の工夫が必要です。先ほどにも述べたように、題材設定を抽象度が高いものにすれば、どのように表現するか生徒各々が考え、多様な表現が生み出されます。そもそも題材とは制作のテーマであり、創造活動の起点となるものです。大まかな方向性を生徒に示すことができれば十分役割を果たします。この題材設定で生徒が主体性を発揮できるように、知識や技術的な学びを確保しつつ、自由に創造力を解放できる流れを考えることが重要です。
私が行なっている中学1年生の絵画の学習では、「自分らしさを見つける」を題材にして、デッサンや絵具の混色、水彩をはじめとした様々な絵具で実験的に学習する教材に取り組んだ上で、「自分の好きなものを描く」メインの制作に入ります。生徒たちはメインの制作に入るまでに形や色、材料に関する経験値を積んでいるため、メインの制作で自分が表現したいものをかなり自由に表現できるようになっています。とことんデッサンにこだわりたい生徒もいますし、典型的な水彩画を描く生徒もいます。中には新しい表現に挑戦して粘土やグルーガンを活用して表現する生徒もいて、そういう実験的な試みが教室の中で共有されて、自然と協働的な学習が行われ、表現が発展していきます。
デッサン、絵具の混色といった絵画の学習としてある程度の枠もありますが、それらを学んだ上で、どこまで枠に囚われずに主体性を発揮して取り組めるかが学習の深まりを考える上で大切になります。そして、そのような学習は「教師も学べる新しい視点」に溢れています。
主体的な学習の意義として、教師が生徒から学べる状況というのは非常に価値のあることであり、教師はそのような体験から教育の質をさらに向上させることができるようになります。これに関しては、生徒の制作で感銘を受けたものを他の生徒に共有するというのが一般的な方法で、そのような作品を展示したり、多くの生徒の目に触れる機会を設けたりするのはよくあることです。ただ、私がここで強調したいのは、教師が感銘を受けるような「学び」が行われた背景を分析して、そのような状況がより生まれやすくする方法について教師が考察する機会を得られるということです。学習過程の面で生徒から学べることは、主体的な学習の基盤を考える上で非常に大切な役割を果たします。
「枠に囚われない題材設定」と「教師も学べる新しい視点」について考えると、これらに共通して言えるのが「教師と生徒の協働的な学び」です。教師には枠に囚われずに新しいことに挑戦する生徒の姿を見取り、その挑戦が充実したものになるようにファシリテートしたり、必要に応じて知識や技術をコーディネートしたりすることになります。そしてそのためには、教師自身も常に学び続けていく必要があります。
こうして教師と生徒が協働的に学び、創造的な学習の中でシナジーが生み出されていくと美術の授業という枠自体を超えたイノベーションにもつながることが期待できます。イノベーションは様々なものが掛け合わさることによって生まれます。美術の学習体験の中で、枠に囚われずに新しいものを生み出すマインドセットが培われるように、教師の想像を超える学びを前提にするというのが主体的な学習の意義を考える上で忘れてはいけない視点と考えています。
3.教師と生徒が共に主体的に学ぶ環境の基盤としての「遊び」
個々の可能性を最大限に生かし、教師の想像を超える学習を実現する主体的な学習は教師も生徒と共に学ぶことが大切になりますが、このような学習状況は非常に壮大で難しいものであると思われるかもしれません。しかし、これを実現するのが「遊び」であり、これが基盤になった学びによって、教師にとっても生徒にとっても主体性を発揮して充実した時間を送ることができるようになるという仮説のもと実践と研究をしてきました。
今回は美術教育に関する研究のまとめであるため、遊びの哲学的な姿について深掘りはしませんが、遊びという現象が、「遊びたいから遊ぶ」という自己目的的な様態であり、遊ぶためには知識や技能といった「遊び道具」、思考力や判断力、表現力といった「発想力・ユーモア」、そしてよりよく遊ぼうとする意志「モチベーション」が必要であり、これらが現行の学習指導要領で求められている3つの資質能力に当てはまるものであるということを前提に話をしていきたいと思います。つまり、人は遊べている限りにおいてより良く遊び、遊びを基盤にした主体的な学びをしている限りにおいてより良く学ぶということです。
4.遊びと学びを一体化させるために
遊びと学びが一体化した状況を美術の授業、さらには学校教育全般で実現していくために、今回は「安心して挑戦を楽しめる環境」「PBL(課題解決型学習)」「サプライズパーティー」という3つのアプローチを説明します(3つに絞ったのは分かりやすくシンプルにするためであり、細分化するとアプローチの方法は無限です)。
これらのアプローチは授業の要素として仕組むことが可能なマインドセットでもあるため、実践するにあたって特に教材を準備する必要はありません。やろうと思えばすぐにできるものばかりです。ただ、事前に用意しておくと便利で有効性の高いものもあるので、時間をがあれば入念に準備しておきたいところです。
①安心して挑戦できる環境
人間は危機的な状況に陥った時に瞬発的に力を発揮することもありますが、長期的には安心して挑戦を楽しめる環境が重要になります。遊びは社会の規則からある意味隔離された独自のルールをもち、遊びだからこそ許される行動もたくさん存在します。授業を遊びと捉え、遊びのルールさえ守ることができれば、生徒のやりたい思いのままに安心して挑戦を楽しみ、内容を発展させていくことが可能になります。
生徒がやりたいと思ったことに挑戦するためにはそれを可能にする学習環境が不可欠です。画用紙1枚と鉛筆1本しか使えない状態で評価されるような制作では、イメージした線が描けなかったとしても消すことさえできませんし、あまり悠長に線を描き込んでいると鉛筆の芯がなくなってしまい、描き続けることさえできなくなりかねません。そのような状況では失敗が許されないため、失敗のない慎重な行動がメインになってしまうことでしょう。そういう経験が全くもって無駄だとは言いませんが、学校での学習時間は有限であるため、行動が制限されるような機会はなるべく少なくすることが賢明でしょう。
それゆえに、限られた時間で可能な限りの挑戦ができるような、行動を刺激するような学習環境と、安心して失敗することができ、失敗すること自体が学びの一環と思えるような指導と評価の一体化を実感できる「安心して挑戦を楽しめる環境」を目指して取り組むことに大きな価値があると考えています。
遊びの醍醐味は失敗覚悟で挑戦を楽しむことができる安心感の中で行えるところにあり、失敗さえも遊びをより楽しい遊びにする要素になります。つまり、安心して挑戦を楽しめる環境によって遊びと学びが一体化した状態をつくることができれば、全ての行動がその時間の充実につながる創造的な行為になると考えられます。
先にも説明したように、私は教室に自由に利用できる素材コーナーや道具コーナーを用意しており、電動糸鋸機やグルーガンなども生徒の必要に応じて使えるようにしています。造形的な実験ができる段ボールパネルのスペースもあるため、やりたいと思ったらすぐに行動できる環境になっているため活発で積極的な学習活動をする姿が見られます。
このような状況では、多様な表現と工夫が生み出されていくため、生徒がお互いの活動を共有し、刺激を与え合いながらアクティブに学ぶことができます。生徒は自由に活動場所を選ぶことができ、立った状態で制作をする生徒もいます。その一方で、自分の席に座って静かに取り組む生徒もいて、それぞれがやりやすい状態で取り組んで満足のいく学習活動になるよう自分の行動を調整させるようにしています。
写真を共有するためには、写真を集める必要がありますが、私は生徒から写真をもらったり、自分の端末で撮影したりして写真を集めるようにしています。生徒は授業の最後にGoogleスライドで振り返りを行い、学習過程を写真付きのポートフォリオにして記録しているので、生徒に許可をもらって写真をもらったり、教師の端末で制作中に写真を撮らしてもらったりして、共有用スライドにクラス毎にまとめます。こうすることで生徒は他者の制作状況の変化も確認できるため、他の生徒がどのようなチャレンジをしたのかを掴むこともできます。
こうしてお互いに刺激を与え合いながらクラスを超えて協働的に学びあっていくと、表現が爆発的に発展して多様な作品が生まれていきます。自分一人で制作をしていると、どうしても「本当にこれで大丈夫か?」と自信を持つことが難しいこともあるかもしれませんが、他者の挑戦的な表現が共有スライドで取り上げられているのを見ると、「やりたいようにやって本当に大丈夫だ!」と安心して取り組むことができます。教師がピックアップした表現にはどうしても権威的な価値がついてしまいますが、ピックアップする表現が多様であれば、〇〇式のような特定の表現に生徒が誘導される心配もないと思います。自分がやりたいと思った表現を選択し、組み合わせていくことになるので、そこからまた新たな表現、イノベーションが生まれていきます。
ルーブリックは評価基準を表したもので、Googleクラスルームを活用すれば、生徒に現状の達成度をルーブリックでフィードバックすることができます。私は振り返りのGoogleスライドにルーブリックを連携させ、授業後の振り返りを確認する際に学習状況を判断してルーブリックの評価を調整しています。振り返りの内容と授業時間に見取ったことを総合的に判断して評価しているので、指導と評価の一体化がこれによって可能になります。Googleクラスルームのメリットはこのルーブリックの評価を生徒も見ることができるということです。つまり、自分の制作が評価されているという手応えを感じながら取り組むことができるようになるため、自分の評価を心配しながら取り組まなくてもよくなります。
挑戦を遊び、本人的にも良い活動ができたという手応えがあっても、そのフィードバックが通知表だとどの部分が評価されているのか分かりませんし、もし評価がBだったら徹底的に挑戦を楽しみ遊び抜いたにも関わらず、それほど評価されていないと感じることでしょう。しかし、ルーブリックとGoogleスライドの振り返りがセットになっていれば、何が評価されたのかを理解することができますし、挑戦した結果、十分な達成度となり評価がAになっているのであれば、余程のことがない限り評価が下がることはないため、そこからさらに安心して挑戦をすることができます。指導と評価の一体化の意義は作品やテストなど特定の結果のみによって評価を決定するのではなく、制作のプロセスや学びの質自体を見取り、適切にフィードバックしたり、評価したりすることにあります。作品の完成度や正確性に囚われず、安心して挑戦ができる環境設定が充実した学習を実現する上で重要です。ちなみに私の場合、A評価の上にA+という評価を設けており、これは相当な挑戦がない限り獲得できない評価にしています。
ルーブリックは生徒が安心して挑戦できるようにする重要な役割を果たしていますが、私としては、中学校や高校での短期的な学びではなく、人生という長期的な視点で学びを考えた、ると場合、自分が満足できたかどうかという自己評価こそ大切であり、誰かの基準で「成績」を出す評価システムを基にした学習動機には内発性に課題があると考えています。
良い成績を取ることが学習の目的になってしまうと、「Aを取るために何が必要か」と考えて取り組むので、学習が調整されて良いように思われることもありますが、これは力を最大限に発揮するという点ではあまりポジティブな結果につながらない「外発的動機付け」となります。
観点別評価において、Aの基準は多くの学校では80%〜85%を基準にしているのではないかと思います。これを新体力テストの20mシャトルランに当てはめて考えてみると102回以上で10段階評価の8がつき、これが体育の評価でAと判断される場合、113回以上で9、125回以上で10を獲得しても、通知表の評価としては同じAです。もちろんシャトルランだけで通知表の評価がつくわけではありませんし、新体力テストは沢山ある種目の合計をA〜Eで評価するものなので、これをそのまま観点別評価と比較するわけにはいきません。ただ、このようにABCで通知表の評価をし、それを生徒にフィードバックすることの不十分さと、そのシステムによってもたらされる外発的な動機が及ぼす学習へのマインドセットの影響を考えると非常に大きな課題を抱えていると言えます。
評価に関係なく、シャトルランで125回の満点を超えても、自分の限界に挑戦していけるところまで記録を伸ばそうとする姿には主体性があり、「挑戦したいから挑戦する」という内発的な動機が存在します。もちろん、こういう主体性が見られる状態でも「大記録で注目を集めたい」「モテたい」といった承認欲求も存在するかもしれませんが、予め誰かによって決められた評価基準を超えて、自分という主体が判断して行動を調整し、大きな成果と達成感を得ているのであれば、本人の本当の目的はそれほど重要ではないでしょう。取り組む中で遊びと同じ「やりたいからやる」という自己目的的な状態になり、内発的な動機のもと取り組むことができているかが大事です。
主体性が発揮できる学習環境と指導と評価の一体化によって挑戦したことがすぐに教師から認められ、フィードバックも得られるようにすることで「安心して挑戦を楽しめる環境」が実現し、生徒は遊びこむことができるようになります。遊びに夢中になっている主体は使えるコンテンツを自由に生かして次々に工夫を繰り出し、創造性を発揮しながら学びを深めていきます。
素材や道具を自由に使えるようにしたり、ルーブリックを活用したりするには事前の準備が少々必要になりますが、それほど大変なことではありません。素材は身の回りにいくらでもありますし、生徒が使いたいものを自由に持参させるようにすればすぐに使えます。道具は大体の美術室であれば、準備室に必要以上に沢山の道具が眠っているのではないでしょうか。それらの封印を少し解くだけで十分です。ルーブリックは年間指導計画や教科書に記載されている学習目標に基づいてアレンジすればそれほど時間はかかりません。今の時代はChatGPTもあるので、文章作成が難しいと感じるのであれば、テンプレートとなる文章と題材のキーワードを入力すれば、一瞬で文章も考えてくれます。あとはそれはコピー&ペーストするだけなので、大した負担になりません。最近はGoogleドライブなどクラウドでデータ共有も容易になったので、ルーブリックを協働で制作して共有することもできます。
今の時代は便利なツールに溢れていて、やりたいと思った大抵のことは実現可能になっています。やろうと思えばそれほどハードルの高いものではないため、できることから少しずつ取り組んでいくことが重要です。
②PBL(課題解決型学習)
私がPBLに関心を持ったのはアメリカのHTH(ハイ・テック・ハイ)と呼ばれるカリフォルニア州にあるチャータースクールでの取り組みです。この学校では特に決まった教科書がなく、PBLがメインになっていて、生徒はお互いの学習に対して批評することを日常的に行い、学びを深めていきます。私自身はHTHを見学したことがないので、本や動画で得た情報から学校の日常を想像するしかありませんが、哲学的で科学的な会話が常に飛び交っていることは想像に難くありません。実際にこの地域の大学進学率の平均と比べてHTHが非常に高い水準であり、大学の中退率も低いというデータが出ていることを考えると、「学びたいから学ぶ」というマインドセットがしっかりと培われていることが想像できます。そんな状況を美術だけでなく、全ての教科で実現して主体的な学習者を育てるためにも授業のPBL化が求められていると考えています。
授業のPBL化と言っても、それほど難しいことではなく、特に美術ではすぐにPBL化することが可能です。自ら課題を設定できるように、「何をつくりたいか」を問い、後はその課題を生徒が達成できるようにサポートするだけです。そのサポートとは先にも述べてきたような、安心して取り組むことができ、個別最適な学習による枠に囚われない自由度の高い学習活動を提供することです。
大学では卒業論文や卒業制作にほとんどの人が取り組んできたことでしょうが、これらはまさにPBLの良い例です。どんな作品を創り出したいかということさえ生徒に問うことができれば、後は自由に取り組み、必要に応じて知識や技能を生かしながら想像したことを具現化していくことになります。
自分で課題を設定することが学習の前提になると、教師から提示する課題に関しては主体性のままに自分がやりたいようにアレンジすることを認めることになります。そうして教師の想像を超える学習が常態化していくこともPBLの大きな可能性です。
普通のレポートの例
レポートの編集力を高める授業は美術の学習として扱っていないため、ほぼそのまま振り返りシートの状態であっても評価には何の関係もありません。レポートを作成する目的は生徒が学習内容を振り返り、考察する探究学習を行う機会にすることと、生徒の学習を教師が正確に見取り、適切な学習評価をすることにあります。
しかし、レポートを始めとして、授業で取り組む内容は全て「遊び」の一環でもあります。なので、レポートで遊びたい場合はとことんこだわったアレンジを加えたり、容量を莫大なものにしてもよいことにしています。
レポート作成を遊んだ例
今回はレポートの例を示した形になりますが、生徒のレポートの中にはこれよりも圧倒的に手の込んだものが当たり前のように存在します。レポート作成が創造的な遊び道具として機能したからこそ、労力を厭わずに取り組むことができたのではないかと思います。
私自身、研究をすることがスポーツと同じぐらいの趣味であり、遊びの一環になっているので、「やりたい」気持ちのままに研究に取り組んでいます。それと同様に、探究学習は生徒の「やりたい」という課題意識のもと進んでいくものであり、その学びに対して教師が制限を加える必要はありません。趣味は時間が許す限り心ゆくまで取り組みたいと思ってやるからこそ、その内容が豊かなものになっていきます。
自分で課題を設定するPBLはその性質上「自分にとっての理想」をベースにして、その実現に向けて自分事として取り組む機会をつくり出します。
例えば「中学生としての思い出と自分を詰め込む卒業制作」という題材で、スクラップブッキングを教材にした場合、一般的なスクラップブッキングに囚われることなく、理想のままにアレンジが加えられていきます。スクラップブッキングはスクラップ帳というものがあるように、アルバムのように本の状態にして写真をメインにデコレーションするのが一般的ですが、写真を使いたくない生徒もいますし、アルバム状だと表現に制限があるということで、B4木製パネルをスクラップブッキングの教材として用意するようにしています。そして、このパネルを使って自分が納得できる卒業制作ができるのであればどのような状態になっても良いことにして制作に取り組んでもらいます。なので、スクラップブッキングではなくボックスアートになることもありますし、絵画作品になることさえあります。その逆に、スクラップ帳を自分で用意してパネルにセットする生徒もいます。この課題が卒業制作であり、中学生としての記憶が蘇るクラフトにさえなればよいわけです。木製パネルはただの表現をするための「場」であり「仕掛け」に過ぎません。
題材と教材をごちゃ混ぜにして、学びの本質を見失うようなことにならないようにすることが大切です。スクラップブッキングは卒業制作という題材に取り組むための、あくまで一つの教材でしかありません。そこに生徒の理想が反映できず、思うような制作ができない状況があるのであれば、自由に生徒が教材をアレンジして調整することを個別最適化の観点からも認めることが大切です。
しかし、これは決して難しいことではなく、そもそも大学などで研究をしてきた経験がある教師にとってはこれまでの授業のマインドセットを改めるだけでできることであり、少し学習の流れをイメージさえすればすぐにでも始められることだと思います。
生徒が遊びながら様々な工夫をしたり、発見に溢れた制作を進めていれば、取り組む本人にとって沢山の驚きを体験することになります。そして、その驚きの表現は他の生徒や教師にとっても強烈なインパクトを与えることになります。どのようにして表現したのか疑問や関心をもち、今度はそれを自分で実践して同様のものをつくり出したり、他の要素とミックスされて更に新しいものが生み出されて、それがまた驚きにつながります。
主体的な制作が授業時間のメインになると、自然と驚きあふれるパーティーモードになって、遊びと学びが一体化していきます。決して教師が頑張ってパーティーの主催者になる必要はなく、生徒の必要に応じて調整することが主な役割になります。生徒というパーティーの主体的な参加者が協働でより充実したパーティーにしていく姿を見守り、応援したり支援したりするというパーティー(授業)の運営は教師として大変楽しく学びのある時間になります。
③サプライズパーティー
遊びと学びを一体化させる重要なポイントの最後は「サプライズパーティー」です。これはもちろん比喩なので、誤解がないように説明しておくと、サプライズパーティーのように刺激的な空間と参加者が協働で楽しむ雰囲気を作り出すことができれば授業が強烈に印象深いものとなり、何度でも体験したいものになるということです。
参加者全員で驚きをつくりだして授業の空気をつくっていく。そんなサプライズパーティーのような場になれば、生徒は常識という固定観念に縛られることなく、むしろそういったことに挑戦するような表現を生み出していきます。挑戦的な表現をお互いに認め合ったり、積極的にサプライズをつくり出して楽しく暖かい雰囲気をつくっていこうとしたりするマインドセットが教室の中で共有されます。
サプライズパーティーという言葉を聞くと、かなり派手なイメージが連想されて、皆が岡本太郎のようなド派手でインパクトのある表現をしていると思われるかもしれませんが、決してそのようなことはありません。中には禅の精神を表すようなシンプルなものもあります。これはこれである意味驚きをつくり出します。現代人が千利休の侘び茶の精神に触れる時に愕然とすることがあるのと同じです。人工的で機械的なものが高価で生産的で優れていると思っている人が、竹が切られた質素な花入を見たり、お茶が立てられる音と外の自然の音が溶け合う世界をゆっくりと感じたりして美の本質に気がつく。そこには喧騒に溢れた日常では発見できない驚きの世界観があるわけです。生徒がシンプルな作品を制作している時は安易に「もっと工夫を加えて」と言わないことが大切で、そこでモリモリ系の絵に発展させていくと、これまた〇〇式のような作品になってしまいます。作品まで全て盛大なパーティーになる必要はありません。
驚きにも様々な形がありますが、ここで抑えておきたい要素が「違和感」です。この言葉に対してネガティブなイメージを持つ人が多いと思いますが、そもそも私たちに「常識」「固定観念」があるからこそ、その範疇で捉えられないものに対して違和感を覚えるわけであり、美術の学習では違和感に対して多面的に捉える機会を大切にしたいところです。違和感は先入観という対象を純粋に見ることがなくなってしまう病気的な状態をデトックスする効果があると考えても良いのではないでしょうか。
生徒が主体性を発揮して、常識に囚われない表現に挑戦していくと、自然と違和感のある表現が生み出されていきます。制作している本人でさえも自分の作品が何を表しているのか分からなくなることさえあるぐらい、日常的な視点では捉えきれないような異質なものが生み出されることも珍しいことではありません。しかし、そのような「違和感」のあるものに内在する価値、美の意味を探究していくと、美の世界観が広がります。生徒一人の力では探究するだけの知識が不足していることもあるので、そのような場合には一緒に考えたり、関連事項を紹介したりして、探究学習が促進されるサポートをすることもあります。
5.遊びと学びが一体化した先に
ここまで遊びと学びの一体化のために「安心して挑戦できる環境」「PBL(課題解決型学習)」「サプライズパーティー」という3つの柱となる考えを説明してきました。私自身、まだまだ試行錯誤をしながら遊びと学びの一体化を図っている段階ですが、このような学習の先に「授業時間外も学ぶ(遊ぶ)モチベーション」が培われていくと考えています。
よく「今の時代は一生学び続けなければ自由に生きていくことが難しい。だから生徒の皆は主体的に学ばなければいけない」と大人や教師が子どもたちに対して言いますが、これについては確かにその通りですが、そう分かっていても、主体的に学ぶことがなかなかできないのは子どもも大人も同じではないでしょうか。
子どもたちに接する大人たちにとって、肝心なのは主体的に学ぶための地盤づくりをして、自然と主体的に学ぶ生きる力を培えるようにすることです。ただ、ここで前提として考えておかなければいけないのが、本来は人間は主体的に学ぶ動物であり、幼い子どもたちが次々に周りのものに興味を持ち、「どうして?」と疑問を大人に投げかける姿を見ても分かるように、生きる力として主体的に学習する態度を生得的に持っています。
そんな素晴らしい学習者が日常的にやっていることが遊びであり、その遊びに大人も参加することで子どもの遊びは拡大し、それを通して学びも深まっていき、やがて大人の力を借りなくても、自分の力で知識や技術を獲得し、試行錯誤しながら創造的な活動を発展させ、自己実現を積み重ねていきます。遊びと学びは一人でもできますが、そこに他者との協働的な要素が入ると更に発展的な要素が入り、遊びと学びが充実することに加えて、良い人間関係を築くこと自体が楽しく幸せな時間をつくり出すということも実感することでしょう。そして、誰かと遊んだり、学んだりすることが当たり前になっていきます。
このような現象は決して珍しいことでもなんでもなく、スポーツをしている多くの子どもたちが日常的にしていることです。私自身も小学校の頃は野球をしていましたが、週に3回ある少年野球チームの練習に加えて、それ以外の日は自主練習で一人で壁に向かってボールを投げ込んだり、他の野球チームの友人とキャッチボールやノック、たくさん人がいる場合は実戦的な練習も遊びの一環として行い、皆で実力を高め合っていました。毎日練習をしていたわけですが、とにかく野球をすることが楽しく幸せだったので、やらない理由がなかったとさえ言えます。今思うと、当時の野球仲間のレベルが高すぎて自分のレベルが平凡にしか思えませんでしたが、自分のチームや友人のチームが京都府や近畿の大会で優秀な結果を収めていたことを考えると、主体性を発揮して遊びとトレーニングが一体化した良い活動ができていたのだと思います。
野球チームには野球をしたい人が集まっているので、この状況をそのまま学校に置き換えることはできませんが、少しやり方を工夫すれば学校でも自己実現や良い人間関係に溢れた幸福感のある授業は可能だと思います。野球をするのは苦手でも、見るのは好きという人もたくさんいるように、楽しめるかどうかは取り組み方次第なので、大人の役割は子どもたちが遊びと学びの幸せな時間を送れるように環境を用意し、調整することと言えるでしょう。
子どもたちが創造性溢れる幸福な時間を授業で過ごすことができれば、それがやがて授業外の自由な時間でも学ぶ(遊ぶ)という、内発的なモチベーションにもつながっていきます。美術の授業が終わって休み時間になっても制作をやめられない生徒はよく見かけますが、それはあくまで授業の流れでやっているだけのことで、かなり主体的に学習に取り組めていると思いますが、本当に主体的に学習に取り組む態度が身についていれば、学校外でさえも自主的に制作に取り組むようになります。
教育の目的を考えると、究極的には学校外で学んだことを生かして生活を主体的により良いものにしていけるようになるまで教育者は見届けるぐらいの気持ちでやらないと、本当は主体的に学習に取り組む態度を判断することはできないのではないかと私は考えています。もちろん現状でそのようなことを学校が行うことは負担が大きくなりすぎるため実現することは難しいことです。しかし、学校外での活動(ボランティアや起業など)に関する話をよく聞くようになりましたが、そういったものが今後更に増えるようになれば、学校の「成績」よりも、実際にどんな活動をしてきたかという「実績」が進学や仕事で重視されることが一般的なものになっていく可能性もあります。「実績」と言うと少々大袈裟に聞こえるかもしれませんが、自分が納得するような生き方ができれば、それも「自分という大切な存在に貢献した」ということで、広い意味で「実績」と言えるのではないかと思います。
学びたいから学ぶ、創りたいから創るという、遊びに見られる自己目的的な姿が基盤になれば、限界のない活動になります。子どもたちが学校では収まらないような活動を求め始めた時、それは教育が良い方向性で行われていることを示すサインであると考えても良いと思いますし、私はそのような状況を目指していけるように学びの在り方を追求していきたいと思います。
6.教師が生徒から学べる状況
ここまで「遊びと学びの一体化」について話を進めてきました。ここからは締めくくりに入っていきます。
遊びのある主体的な学習では教師が予め設定した基準に沿った「成績」だけでなく、個人の満足度や学校外で達成したことなど、ABCや5段階評価といった単純な「成績」では表せない「実績」と言えるものについても意識したり、教師が生徒と一緒に充実した学習を創造していこうとしたりする姿勢が求められるようになります。教師一人の考えや世界観には限界があります。その狭い尺度に生徒を閉じ込めるのではなく、教師も生徒と一緒に学びながら成長していこうとする姿勢が大切と言えるでしょう。そして、そんな挑戦を教師も遊びの一環にして、幸福な授業時間にすることができれば、ストレスフルな仕事という認識はきっとなくなることでしょう。
逆に、授業が教師にとって学びのない面白みにかけるものになっているのであれば、それは要改善です。生徒が主体性を発揮して楽しく深い学びをすることができていれば、十人十色の取り組み、見たこともない学習活動を見ることができるはずです。そこから教師が学べることはたくさんあります。
まずは教師自身が授業を振り返り、自分にとって学びがある授業ができたかどうかを考え、メタ認知する習慣を大切にしたいところです。
7.遊びのある学習環境のために必要なマインドセット
最後に、遊びのある学習環境を形成する上で私が欠かせないと考えるポイントを紹介します。それはPBIS(Positive Behavioral Interventions and Supports)とSEL(Social Emotional Learning)で、ポジティブな行動支援と社会的・情緒的学習を意識した教育です。
非認知能力への注目からPBISやSELを生かした取り組みが盛んに行われるようになってきています。そして、生徒指導提要や学習指導要領にもこれらの要素がふんだんに盛り込まれています。学習指導提要は300ページぐらいある大容量ですが、項目から気になるところを少し読んだだけでも、その理念が分かります。ここでもやはり、主体的で対話的な視点が中心になっています。「生徒指導=怖い先生が厳しく指導して問題行動を抑制する」という考えは微塵も感じられない、爽やかささえ感じる内容になっています。そこにはポジティブな気持ちをメインにして子どもたちを支援したり、応援していこうという温かい思いを感じます。
生徒指導提要や学習指導要領はプロフェッショナルな教育者である教師として、必ず目を通して、その理念を理解しておく必要があると言っても過言ではありません。そして、それらの内容をチェックシートのような視点で確認し、自分のやろうとしている教育が内容に沿ったものであるかどうかを考えることが大切だと思います。
主体的な活動の不可欠要素として、学習指導提要や学習指導要領が溶け込んでいれば、後は子どもたちが主体性を発揮して伸び伸びと学習活動で遊ぶ姿、そして自己実現と幸福に溢れた時間を送る姿を見守り、それを継続、発展していけるよう調整することが教師の大切な役割になると思います。
最後まで読んでくださってありがとうございました。今回はこれまでの研究と実践のまとめの文章だったので、かなりのボリュームになりましたが、ある程度私の美術教育に対する考えを言語化することができたと思います。これを起点にこれからさらに美術教育に限らず、学校教育の発展に貢献できるよう研究と実践を積み重ねていこうと思います。
人生は長い旅であり、最後の瞬間まで遊び、学んでいくことが幸福な人生であると信じています。そのためにも、少しでも多くの人が主体的な学習に目覚められるようにするお手伝いをしていきたいと思います。
教師が主体的学習をマインドセットにした瞬間、教師にとっても生徒にとっても幸福のスイッチが入ります。
それはきっと学習に関わる全ての存在に当てはまるのではないでしょうか。そうでなければ、好奇心や冒険心という時に危険な目にも遭遇するような主体的な学習意欲を備えて人間という動物は生まれてこなかったことでしょう。
これからも人生という冒険を楽しんでいきたいと思います。
それではまた!
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