目標の持つ意味 〜ランニングを通して考える〜
今回は目標との付き合い方について私の考えを書いてみました。
今年の夏は過去一ランニングに出かけ、8月は月間で100キロ以上走ることができました。この月間の数字はNike Run Clubで計測を始めてから過去最高記録です。ガチのランナーと比べたら全然大したことのない距離とペースですし、長距離の陸上選手であれば数日程度でカバーしてしまうような距離しか走っていませんが、自分としては毎日継続してランニングに取り組み、体力が落ちやすい夏場にむしろ体力を向上させることができたことに大きな意味があると考えています。
記録を更新したり、目標を達成したりすると、更に高い目標を設定することが多いと思います。なぜなら目標を達成することは成長であり、成長によって広がった可能性でより幸福になれると考えられていて、目標を更新していくことが幸福度を上げていくものであると考える人が多いためです。
しかし、そもそも目標というものがどのような意味を持つものであるのかが曖昧な状態で、闇雲により高いレベルの目標を数値的に設定して、本当に人は幸せになれるのかどうかというとかなり怪しいものがあると思います。今回は、私がこの夏に目標を持ってランニングに取り組むことを通して考えたことを基に目標の持つ意味について改めて考えてみたいと思います。
一番大事な目標以外は充実度を目標のポイントに
目標と言っても、短期目標や長期目標などさまざまなタイプのものがありますが、比較的重要な目標とそうでない目標というものもあります。例えば、「幸せな人生を送る」というのは多くの人にとって重要な目標になると思いますが、「良い車に乗るためにお金を貯める」というのは前者に比べるとそれほど重要な目標にはならないと思います。良い車に乗るというのは幸せに関係することかもしれませんが、お金を貯めるために過重労働をしたり、極限節約生活で不自由な暮らしをしたりして苦しい時間が多くなってしまうようでは本末転倒です。目標はあくまで総合的な幸福感、Well-Beingにつながるものが望ましいと私は考えています。
私がランニングをしているのは「健康的に長生きしてこの世界を徹底的に楽しみたい」「活力ある生活をして充実した仕事をしたい」「スポーツを楽しむための基礎体力を維持したい」「ランニング後の爽快感を味わいたい」といった目的があって、それを達成するためにランニングの目標を設定しています。
ランニングは距離やスピードを目標に設定するのも良いと思いますが、私の場合はランニングの目的が記録に関することよりも、他のことに重点があるため、最近は距離とスピードを追求する意識は薄くなってきました。ランニングを始めた7年前ぐらいは走った分だけすぐに記録が伸びていたので、距離とスピードを伸ばすことを目標にすることもありましたが、最近は距離は少し伸びてはいますがスピードへのこだわりがなくなって、気持ち良い程度に走ることが多くなっています。夏のランニングは暑くて汗が爆発的に出るので快か不快かというと明らかに不快ですが、ランニング先の公園などで涼みながらKindleで読書したり、ランニング後の冷水シャワーは快楽そのものなので、少し先の快楽をモチベーションに少々苦しい時間を耐え忍ぶようにしています。
ランニングを終えてから勉強や仕事をすると捗りますし、入浴時のリラックス効果や、その後の睡眠の質向上につながります。あくまでランニングは他のことを促進させる働きがあり、快活な生活を送る上でランニングの充実も欠かせないという考え方で取り組むようにしています。
自分にとって一番大事な目標に関することであれば短期目標や中期目標を設定して、どんどん目標のレベルを高め、夢のような長期目標を実現するというのも良いと思いますが、比較的重要度の低い、主要な目標を補助する程度のものであれば、それほど気を張って目標設定する必要はないでしょうし、他人と比較して高い設定をする必要もないと思います。目標が達成できないと自己肯定感が下がってしまう可能性があることも考えておかなければいけないと思います。
Well-Bingに関する目標は「脱成長」も必要
自己実現に関する長期的な目標であれば、それを達成するために短期目標、中期目標と成長段階を踏んでいくことが重要になりますが、幸せに生きるために必ず目標と達成、そして成長が必要というわけではないと考えています。なぜなら、人は幼い時からすでに幸せを手にしているためです。そんなことを1歳にも満たない自分の娘から教えてもらいました。
幼児と一緒にいると分かるのですが、彼らは確かに新しいことを発見したり学んだりしたときに大いに喜びます。しかし、彼らに目標達成や成長という意識はないと思われます。目の前のことに没頭し、親など周りの人の愛に包まれている中で楽しさや充実感を感じ、ただただ満たされていて幸せに浸っているという印象です。
これがもし、「成長のため」となって幼児が没頭できる環境がなくなり、厳しい躾中心になってしまったらどうなるか。そのような環境にある程度適応して大人の目からすると「成長」しているように感じられるようになるかもしれませんが、それによって幼児が失う大切なものを考えると、決してそのような「成長」が必要というわけではないと言えるでしょう。
Well-Bingに関する書籍は最近よく見かけられるようになりましたが、大体内容は同じで「良い人間関係」「足るを知る」「幸せは他者との比較では測れない」といった、よりパワフルに成長していくこととは関係のないもの、むしろ脱成長への意識を促すようなものが目につきます。目標を高く設定し、成長しようとすること自体はとても素晴らしいことだと思いますが、それによって人間関係に無駄に歪みを生んだり、尽きない欲望の沼にはまったり、他者との競争に勝つことでしか満足できないような、「歪んだ成長」をしてしまっては虚しいばかりです。たくさんのことを達成して成長し、自己実現を目指す中でも、やはり幸福に生きるという本来の目的を見失わないためにも、Well-Beingに関する目標は無理のない程度に設定し、脱成長という緩さも必要なのではないかと思います。
時間は有限、無理はしない
もし時間が無限にあって体力も無限にあるならとことん高い目標設定をしてさまざまなレベルを向上させていけば良いと思いますが、人間はそのような世界で生きていないということを、当たり前のことではありますが認識した上で目標と付き合う必要があると思います。
私自身、一番走るにはコンデイションの悪い8月に、ただ走る時間が十分にあったというだけで月間最高距離を稼ぐことに成功したので、これから涼しくなって、学校の最終下校時刻が夏場の18:30から17:15まで早くなれば毎日たくさんの距離を走ることは容易になります。ただ、私にとってランニングの記録を更新するという目標は不要であり、あくまで毎日が充実するためにランニングを手段として活用している程度なので、ランニングにたくさんの時間を費やして、他のやりたいことを犠牲にするのは総合的に考えると自分にとって望ましい状況とは言えません。走った分だけ数字はついてくるため、「最高記録を出したい」という欲望が湧くかもしれませんが、そこは冷静に自分の一番大事な目標とのバランスを考えて行動しなければいけません。
目標達成は嬉しいことですし、短期的に達成できることであればドーパミンがガンガン出て依存症のようにさえなりますが、それによって負担が大きくなって時間を失い過ぎるようなことにはならないように自己分析することが大切です。私自身、以前にブログを年間100本と目標を設定したことがありましたが、これによってかなりの負担になって生活のバランスが悪くなっていると感じたので、すぐに目標を撤回したこともあります。一時期ペースを上げたこともありましたが、ブログを書き始めた頃から継続している週1回更新という頻度が自分にとって丁度良い、心地よく取り組めるレベルであることがこの3年間でよく理解でき、ブログに関しては脱成長路線をひた走っています。ただ、内容的にはより考察の深いものにできるよう、普段から学びを大切にしています。そして、その学びをこの場でアウトプットする際に生かし、無理のない範囲で成長を試みるようにしています。
目標との付き合い方は人それぞれあると思いますが、目標によってメンタルダウンしてしまうようなことにならないよう、自分に合った設定をしたり、そもそも目標とは自分にとってどのような意味を持つものであるのかをよく考えることも大切だと思います。
今回、ランニングで目標を達成したことで改めて自分にとって大切な目標と向き合う機会を持つことができましたし、目標とは自分にとって幸福な生活を継続する上での自己認識するツール程度のものであると再認識することができました。この目標が自分の幸福につながるのか、大きな目標を促進する助けとなるのか、そんなことを考える良い機会になるのが目標設定することの意味なのではないかと私は思います。
最後まで読んでくださってありがとうございました。今回は目標の持つ意味について私の考えを書きました。読んでくださった方に何か参考になったのであれば嬉しいです。成長を目指した目標、脱成長タイプの目標、両方とも大事にしてバランスの良い充実した生活を送っていきたいと思います。
それではまた!
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