コンクールや展覧会への出品が困難な作品に対する受容と、今後のコンクールの在り方についての考察
主体的な学習が教育のキーワードになって以来、生徒が美術の授業で制作する絵画作品が非常に多様化しています。その影響もあって、最近は文化祭での展示の難易度が高い作品や全国教育美術展などのコンクールに規格上出品が困難な作品が多くなってきました。
このような状況は見方によれば教師にとって「不都合」と言えるかもしれませんが、これは絵画の発展的な学びを考えると大変重要な意味があり、主体的な学びに基づいた個性の伸長という教育本来の目的を考えると、むしろそういう「不都合」と感じられる機会は歓迎し、そこからさらに教育を改良していく足掛かりにさえできるのではないかと考えています。
今回は教師にとって「不都合」と捉えかねなれない絵画を受容することの可能性と、「不都合」を生み出す一端になることがあるコンクール作品や美術展の今後の在り方について考察をしてみました。
絵画を超える表現
絵画と言えば「平面」としての認識が強く、コラージュなどの貼り付けは絵画表現としての市民権を十分に得ているとは思いますが、基本的には平面的なものとして扱われているのが一般的です。
しかし、フランク・ステラの立体的な絵画や、ルシオ・フォンタナのようなキャンバスに切り込みを入れてキャンバスの物質性と空間性を要素にした表現など、平面だけでは語れない要素が絵画には本来はあるはずです。これらのアーティストの作品は絵画であると同時に彫刻作品としても成立しています。
そうであるなら、美術教育で扱う絵画制作も平面に縛られる必要はなく、形も四角でなくても良いと考えるべきであると思います。そもそも、絵画や彫刻、工芸、デザインという言葉は言語コミュニケーションの便宜上存在しているに過ぎず、創造活動がこれらに支配される必要性はないはずです。樹脂を含んだアクリル絵具を厚塗りしてニードルで削って表現するのと、樹脂粘土でレリーフといえるぐらいに立体的に盛り上げた上で彫刻を施した表現は物質的にも方法的にもほぼ同じですし、そこにどちらが絵画でどちらが彫刻であるかを議論すること自体が不毛です。よくある「これは絵画かデザインか」も似ています。
絵画か彫刻か、彫刻か工芸か、絵画かデザインか。こういったことを哲学的に考えること自体は存在に対する認識を深めるため非常に意味のあることだと思います。しかし、主体性を発揮してやりたいように表現している生徒にとって「この時間は絵画らしい絵画を制作しましょう」というように、教師の都合で表現の幅を狭めてしまうのは勿体ないことであると思います。
私は授業で生徒の多様な表現をGoogleスライドで共有し、クラスの範囲を超えた刺激の与え合いを可能にしています。あるクラスで樹脂粘土で着彩した表現を写真撮影して共有すれば、その後のクラスの制作でもやはり樹脂粘土を活用する生徒が出てきます。教室には授業で余った材料や生活の中で手に入る様々な素材(木材、不織布、ビニール、綿、発泡スチロールなど)を自由に使えるように素材コーナーを設けているので、そういったものが生徒の自由なアイディアで創造的に活用され、その情報をクラスだけでなく他の多数の生徒と共有すれば、指数関数的に工夫のバリュエーションが広がっていきます。
「不都合」な作品を受容する
コンクールの多くが作品の規格(四つ切画用紙など)を設定しています。全国教育美術展のような、授業で制作した絵画作品を扱うコンクールでもそのような規格(四つ切サイズ以下、厚さ1cm以下)があり、それに合わない作品は取り扱ってもらえません。
文化祭などで授業作品を展示する際も、統一された規格の方が展示作業が楽であることは言うまでもありません。私もこれまで文化祭の度に授業で制作した作品を次から次に連結クリップで繋ぎ、整然とした展示を行ってきましたが、これができるのは作品のサイズが統一されていて、重ねて移動させることが可能な平面作品ばかりだったためです。
コンクールや展覧会の都合を考えると、規格外の作品や絵画でありながら破損の恐れがある作品は管理が難しく、そういった作品を集めるのが厳しいという側面は仕方のないことであり、「不都合」な作品を受け入れるわけにはいかないというのも理解できることです。しかし、その「不都合」によって生徒の学習活動に影響が出てしまうというのは望ましいことではありません。
例えば、生徒が順調に絵画の制作を進め、全国教育美術展などのコンクールに出品すれば確実に入選するような状態になったとします。しかし、そこから生徒が主体性を発揮して、さらに創造力を生かして絵画を変形させたり、絵画か立体かの判断さえ難しい作品に発展させたりする可能性もあります。その際に、教師がそのような生徒の表現を制止するために、「その表現をしてはいけない」と言ってしまうようなケースが考えられます。
このような教師都合を生徒に押し付けるようなことがあると、美術本来の可能性に溢れた学びを犠牲にしてしまいます。制作に夢中になっている生徒にとって、コンクールに出品できるかどうかはどうでも良いことです。教師としては「生徒に賞を取らせて喜んでもらいたい」という生徒への思いもあるかもしれませんし、実際に生徒の中には賞を取るために制作をしている場合もあることでしょう。しかし、そういう生徒であれば自然とコンクールの規格に合った表現をすると思います。美術に限ったことではありませんが、学習活動はあくまで生徒の主体性を尊重することが大切であり、そのような活動の中で個々の可能性を最大限に発揮した学びも可能になることでしょう。
教師には生徒の手から生み出される多様な表現を受容したり理解したりする姿勢が求められます。生徒が生き生きと取り組んでいる中で、直感的に「不都合」と思うような表現との出会いは教師にとって重要な学びの機会になると私は考えています。本来絵画とはどういうものか、主体性を生かした表現の姿とはどのようなものか、こういったことについてクリティカルシンキングして既成概念化していることを捉え直すことにつながります。
コンクールだからこそデジタルを取り入れる
美術教師をしていると、夏休み明けなどに大量のコンクール作品を処理して、主催者に提出するという大変な仕事をしたことがある人も多いと思います。しかし、そのほとんどの作品がポスターとして採用されたり、展示されたりすることなく、処分されたり学校に返却されたりします。このようなコンクール作品に関する多くの作業が教師にとって大きな負担になっていると思いますが、生徒が取り組む意義について考えると、作品を募集する方法についても検討する必要があると考えています。私はデジタルでの作品募集と、必要があれば2次募集で作品本体を提出するというのが今後必要なのではないかと考えています。
デジタルでの作品募集では手描きの作品を写真データにする方法と、パソコンで制作したデジタル作品を送る方法がすでに一般的にも広まってきていますが、これが学校のコンクールでも一般普及する必要があると思います。
そもそもこれだけデジタルが普及している社会で依然として手描き作品に限定する必要性が低くなっています。ポスターコンクールの作品はその際たる例で、世の中のポスターのほとんどがデジタル技術で制作されているにも関わらず、学校関連のポスターコンクールが手描き限定というのがあまりにも時代に合わないものであると言えます。綺麗に枠内にムラなく塗る技術を生かして着彩したいのであればそれも良いですし、私自身、綺麗にムラなく塗る作業自体はマインドフルな状態になれるため嫌いではありません。しかし、一律にそういう作業がポスターコンクールで重視されるのは不自然です。デザイナーたちがデジタル技術を駆使してポスターを制作しているのであれば、そういう体験ができるようにするのもポスターコンクールの教育的な意義になるのではないでしょうか。
教育美術展に関してもデジタルの導入が必要であると考えています。教育美術展が絵画に限定することによって、どうしても絵画が美術教育の中心的な存在となります。しかし、もしデジタルで作品の映像データやデジタル作品を審査することができるようになれば、教育美術展に集まる作品のバリュエーションは一気に広がります。入選作品の展覧会をするのであれば、その作品だけを送れば良いわけで、わざわざ何万点もの実物の作品を集める必要もなくなります。これまで絵画限定であった教育美術展も立体作品を映像で審査できるため募集が可能になります。「教育美術」という名を冠しているからには、様々なジャンルのアートに開かれたものとなる必要があるのではないでしょうか。
デジタルの導入は審査の面でも有効性が生まれると考えています。特に著作権に関するものは今後AIが進歩することによって瞬時に類似作品を探すこともできるようになると予想されます。これまで多数の人間の目で審査していた著作権に関するフィルターがデジタルによってより正確に機能するようになることでしょう。
コンクールのデジタル化によって手続きの多くが生徒に委ねることも可能になり、教師の仕事は生徒の作品を確認する程度になることも考えられます。これまでコンクールの募集は教育委員会などから学校に案内が来て、その中から教師が生徒に取り組ませるものを選択して募集をかけるというものでしたが、本来は生徒一人ひとりにコンクールに関する情報が渡るべきであり、その中から生徒が主体的に判断して取り組みたいものに取り組むのが望ましいと考えます。この方法は一人一台端末が実現した現在であれば、その気になれば実現可能だと思います。
コンクールでの成績が制作する上での主なモチベーションになるのは内発的動機付けの面で最良の方法とは考えられませんが、まずはコンクールの在り方自体が時代に合ったものへと変化し、生徒一人ひとりが「このコンクールなら取り組みたい!」と思えるような状況を作っていくことが必要であると思います。これを達成するためには様々な機関の協力が不可欠であり、政府の関係機関が強いリーダーシップを発揮しないと進まないと私は考えています。今後、コンクールが生徒や教師にとってより理想的な状態となり、美術教育の健全な発展につながるものになることを願っています。
最後まで読んでくださってありがとうございました。今回はコンクールや展覧会への出品が困難な作品を受容することの重要性と、今後のコンクールの在り方について考察をしてみました。何か参考になる視点があれば嬉しいです。
コンクールの在り方を私自身が変えていくことは困難ですが、地道に自分が担当している生徒に、美術本来の自由な創造活動を通して楽しみながら広く深く学んでもらえるようにこれからも取り組んでいきたいです。そのためにも生徒の作品に対する直感的な「不都合」と向き合い、クリティカルにこれまでの取り組み方を捉え直していきたいと思います。
それではまた!
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