文化祭の価値について考察


  10月14日に私の勤務校で文化祭(正式名は北中祭)が行われました。私の学校では過去3年間の文化祭はコロナ禍ということで完全な状態で行えていませんでしたが、今年は全校生徒が体育館に集まって全プログラムが行われました。プログラムは3年生の合唱、弁論(3年1名)、英語スピーチ(3年1名)、展示(美術部、美術科)、吹奏楽、生徒会執行部という内容で、割と普通のプログラムで行いました。個人的には1・2年生の発表機会を作った方が良いとは思いますが、そのような文化祭でもそれぞれの発表が大変素晴らしいものだったので3年生はもちろんのこと、1・2年生の多くも楽しい1日を送ることができていたと感じています。

 最近は授業時間数確保や文化祭の準備に向けた教員への負担も考えて文化祭を廃止する学校も出てきており、文化祭を開催する意義や価値について問われることもありますが、私は文化祭をこれからも継続していくことが望ましいと考えています。なぜなら、文化祭があることによって普段の授業では得られない心の成長や感動体験の機会が生み出される可能性があるためです。今回はそんな文化祭の価値について改めて少し考察してみました。


3年生と合唱のパワー

 今回の文化祭は3年生の合唱が特に印象的でした。どのクラスも素晴らしい歌声で会場全体に感動の渦を巻き起こしていました。感動して涙を流す生徒や保護者、教職員も多数。もうこれだけでも十分に文化祭を開催する価値はあると言えます。発表の機会がない1・2年生が食い入るように発表を見ていました。

 私の学校では1・2年生は文化祭よりも前に歌声大会というものがあり、そこで順位を競って発表します。1・2年生も発表に向けて放課後練習に励み、本番でも頑張って歌いますが、3年生は中学校で最後の合唱ということで、1・2年生と比べると圧倒的に高いモチベーションで練習時から歌います。過去に私が3年のクラスを担任した時には練習を重ねて見事に仕上がってきたクラスの歌声に生徒自身が感動して泣くということもありました。本番だけでなく、練習時から合唱の取り組みには感動体験の機会があると思います。

 そんな3年生の合唱を文化祭で目にする1・2年生。音楽の持つ素晴らしい力を強烈に心に刻み込む機会となります。身近な存在である3年生たちがヒーローのように見えると同時に、来年は自分たちも良い発表をしたいと考える生徒は多いと思います。声を合わせてハーモニーを作り上げたり、指揮者や伴奏者と一体になってグルーヴ感のある合唱を作り上げたりする魅力について、普段はあまり音楽の重要性について考えていない生徒でも認識することになると思います。

 そうは言っても、いざ1年後にまた文化祭シーズンになって合唱の練習が始まる時に、なかなか歌うことに前向きになれない生徒がいるのも事実。そのような生徒に対する指導で教師には忍耐が必要だと思います。私自身、昔は声が出ていないことに対して叱る指導をしたこともありますが、それで歌う生徒はほとんどいません。スポーツも勉強も、結局は「やりたいからやる」のであり、「歌いたいから歌う」状況を作り出していくことが最優先です。クラス全体の歌う雰囲気を上げていけば自然とお祭りモードのようになって、声を出しにくかった生徒も周りに釣られて声を出すようになる可能性があります。私自身まだまだ雰囲気を上げていく経験値が不足していると感じていますが、最近はクラスの歌声リーダーに練習をほぼ任せるようにして上手くいくことが多くなってきました。自分は基本的には取り組みを見守り、少しアドバイスや感想を言う程度にしています。そうすると、生徒で話し合って課題を解決を図る機会が多くなり、その中で自然とクラスの一体感も生まれていきます。

 合唱の練習には普段の授業ではできないような学びと成長、非認知能力を伸ばす機会があり、たとえ本番で良い順位が取れなくてもクラスで協力して合唱を作り上げた経験には大きな価値があります。文化祭という大きなイベントがあるからこそ合唱でクラスが熱くなり、他クラスとの刺激の与え合いの中で力が伸びます。そう考えると、文化祭の存在価値は大いにあると私は思います。

 私の学校では、文化祭は吹奏楽部の3年生のラストステージにもなっており、こちらの発表も3年間の集大成ということで、文化祭のフィナーレを飾るに相応しい発表が毎年行われています。私自身も大学時代は軽音楽部に所属してバンドを組み、ライブを大学の内外でたくさん行ってきましたが、大学生活最後のライブは特別なものでした。それはスポーツも同じです。最後の試合やステージは、普段以上に輝く姿が見られることが多いのは、並々ならぬ気持ちで臨むからこそ、見る者を感動させると思います。そんなシーンを生で見ることができる文化祭という機会はとても貴重と言えるでしょう。


大規模な作品鑑賞の機会で得られる刺激

 文化祭では美術部と美術科の展示が体育館を埋め尽くします。普段の授業でもなるべくたくさんの生徒の作品を見ることができるように鑑賞する機会を頑張って用意していますが、全ての生徒の作品が展示される文化祭のものとは比較になりません。

 壁に展示する作品は見やすく、他の作品との違いが大変分かりやすくなるため、それぞれの作品から放たれる個性が際立ちます。今回の文化祭の展示で生徒や教職員から作品鑑賞の面白さをたくさん耳にすることができ、上手下手の問題ではなく、作品それぞれが持つユニークさに注目してもらえたのは美術科担当として大変嬉しかったです。

 「どの作品も面白い」と感じてもらえると、鑑賞するときの前提が上手か下手かの問題ではなくなります。写実的な表現だけでなく、アクションペインティングやモダンテクニック、用いる素材を工夫して質感にこだわった作品など、多様な表現の魅力が鑑賞を通して体感できると世界観が大きく広がります。

 遊び心の塊とも言える美術作品や工夫されたデザインとたくさん出会うことができれば、その後の美との関わり方にも変化が生まれ、生活で美意識がより働くようになると思います。優れた美術作品やデザインは文化祭でなくても目にする機会はいくらでもありますが、私の考えてとしては、身近な人が制作した作品だからこそ、「自分にもできそうだ」となります。保護者や教職員にとっても、子どもたちの創造力から刺激を受ける良い機会になります。

 美意識を培う重要性は子どもたちだけに当てはまることではなく、全ての大人にとっても無視できるものではないと思います。文化祭は地域の人々に美術の魅力を伝える役割もあります


生徒の主体性を生かした行事

 文化祭が教員の負担になるという可能性はありますが、そもそも文化祭は生徒主導で動いても良いと思いますし、教師は生徒が考えてきたことをサポートするぐらいでも十分に運営できるはずです。中学生にはそれだけの力が十分にあります。

 逆に教師が中心になって文化祭を考えると、どうしても生徒はやらされる側になってしまい、そこにモチベーションの問題が生まれます。教師が熱くなりすぎて生徒が負担を感じるのは主体性を尊重する今の時代に合っていませんし、逆に教師が手を抜いて生徒が楽しめない文化祭を用意しても、それは開催する価値が乏しくなります。

 私の学校では、まだ生徒主体で文化祭を考えるレベルには達していませんが、いずれそうなって欲しいと個人的に思います。現段階でも3年生の多くは主体性を発揮して合唱や吹奏楽部の演奏に取り組んでいますが、肝心なのは文化祭というもの自体がどうあるべきかを生徒が考え、より良いものに生徒主導で変えていくことにあると考えています。こういうこともPBL(課題解決型学習)の一環として取り組めることであり、このような経験はそのまま社会に出ても生かすことができます。

 逆にこの創造的な活動体験がないと、前例踏襲することを基本姿勢にする大人になっていくのではないでしょうか。前例踏襲というのはわざわざ人間が考える必要のないことであり、そういうマインドをベースにすることがこれからの世の中においてどのような意味を持つのか考える必要があると思います。

 創造的な活動は労力を必要とします。しかし、その労力はあそび同様に刺激と学びに溢れた充実した時間を作り出します。生き生きと生きるために活動をする。近い将来、食べるために仕事をする時代ではなり、大量の余暇の時間をどう使うかが問われる時代になることが予想されています。実際に最近は働きすぎないように労働時間を少なくする動きも顕著に見られます。週休3日制にしても生産力はほぼ変化しなかったという研究も出ており、週5日40時間も働く必要はないと言えるでしょう。そもそもこの労働時間の基準は第1次世界大戦後に設定されたものであることを考えると、いかに時代に合っていないかが伺えます。

 余暇の時間があれば、旅行や観光を計画するなど楽しいことを自ずと企画する人も少なくないように、想像力を発揮して楽しいことを考える力は、きっとこれからの時代、充実した人生を歩んでいく上でより重要なものとして考えられるようになると思います。


シンプルなプログラムでも感動できるからこそ生徒に委ねる余裕が大切

 最初に述べたように、今回の文化祭は3年生の合唱だけでも十分に開催する価値があるものでした。つまり、文化祭には大きな可能性があるということです。そこに少しでも生徒の希望が反映される要素が入ればさらに多くの人が楽しめるイベントになるでしょう。

 文化祭を教材と考えたときに、生徒のモチベーションをいかに上げるかを考えることが教師には必要だと思います。この教材が教師の指示通りに生徒が動かなければいけないものであれば、生徒の主体性は生かされず、教材の可能性を十分に発揮することはできなくなるでしょう。しかし、生徒主体で活動できる要素を入れ、運営を委ねる仕掛けがあれば、自ずと教師が想像していなかったようなイベントに発展する可能性もあります

 学校の教育活動の多くが生徒の主体性を尊重することが求められるようになった現代。もしかしたら、そのような教育に不安を持っている人もいるかも知れませんが、私はこの数年間生徒に委ねる割合をどんどん大きくしてきたものの、状況は全体的にかなり良くなってきています。授業や部活、クラスが荒れることもなく生徒は伸び伸びとやりたいことに挑戦して楽しむ姿を見せてくれます。

 きっと文化祭に限らず、授業も部活動もクラスも専門委員会も、生徒が主体的に取り組めるように活動を委ね、教師としてサポートしたり、ファシリテートしたり、時に応じて必要なものをコーディネートしたりするだけで生徒の活動は盛り上がるのではないでしょうか。学校が備えているコンテンツを生かせば、刺激的で感動的な体験はいくらでもできることでしょう。取り組むことはシンプルなことでも、そこに生徒の主体性さえあれば十分なのかも知れません。


 最後まで読んでくださってありがとうございました。今回は文化祭の価値について考察することを通して、生徒の主体性に委ねることの重要性についても私の考えを書いてみました。今回の内容は考えたことを率直に、徒然なるままに書いたものなので読みにくい部分も多々あったと思いますが、何か参考になるものがあれば嬉しいです。

 それではまた!




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