新学習指導要領&GIGAスクール構想3年目 見えてきた教育の形

 今回は12月3日に岡山県教育工学研究協議会主催で行われた「これからの教育の情報化を考えるオンライン研修会」で私が発表した内容をまとめました。これまでにブログで扱った内容と被る部分もありますが、発表に向けて様々なICT活用の内容を端的にまとめ、新学習指導要領とGIGAスクール構想の相互性について説明する機会となりました。

 今回、発表資料をブログ版に編集し直しました。私自身、ICT教育が得意というわけではありませんが、新学習指導要領に基づいた主体性を大切にした教育を進める中で必然的にICTが必要になりました。今回の内容が新学習指導要領とGIGAスクール構想の関係性について読まれた方にとって何か参考になるものとなれば嬉しいです。


問われる学校の在り方


 新学習指導要領とGIGAスクール構想3年目を迎え、これまでの学校教育が大きく変化し、学校を生徒主体の活動の場として考えることの重要性が高まってきました。旧来の学校教育ではできなかったような個別最適で各自の課題に基づいた学習がICTの活用でますます可能になっています。私が勤務する学校でもスタディサプリが導入されていますが、これを活用すれば普通に教室で授業を受ける場合よりもかなり短い時間で知識を学ぶことができますし、そもそも知識を頭に入れるだけであれば自分で教科書を読んで自分のペースで進んだ方が教師が教えるよりも早く知識を獲得することが可能な生徒もある程度はいます。そのように考えると、知識偏重型で行う学校教育は、学校の在り方として合理性を欠いていると言えるかもしれません。
 新学習指導要領とGIGAスクール構想によるICT活用は学校教育の在り方を根本から問い直す機会になったと言えるのではないでしょうか。

 
 教師が授業で一斉に知識を教えるということが当たり前のように行われてきた学校教育ですが、江戸時代に普及した寺子屋で行われた教育は学び手のペースで学べるケースが多く、藩校での教育も学び手が学びたいことを自由に学べる個別最適な学習環境が存在していました。そのような学習環境では一斉指導よりも学び手どうしのアクティブラーニングが重要になります。
 このように、昔から教師が知識を子どもたちに大して教えなくても自然に知識を獲得していたと考えられます。最近は教師は学びのファシリテーター、同伴者としての役割が重要であると言われるようになりましたが、実は昔から偉大な先生は学びのファシリテーターであり、適切な学習機会を提供するコーディネーターであったと言えます。松下村塾で久坂玄瑞や高杉晋作などを教育し、時代の転換点となる活動を精力的に行った吉田松陰もそうで、彼の思想の一つに「草莽崛起」というものがあります。この言葉を弟子たちに語り、志に火をつけ、日本の新しい時代の立役者となった彼の業績を考えると、教育の可能性の大きさに心が震える思いがします。そんな私も吉田松陰の草莽崛起という言葉に時代を超えて志に火がついた一人です。
 教師が学び手の心に火をつけれることさえできれば、わざわざ自分が知っていることを全て教える必要もなくなります。まさか吉田松陰が朝から晩まで松下村塾で塾の講師のように授業マシーンになっていたとは考えられません。


 学びは先生と言える存在がいなくても、遊びの中でも活発に行われます。一般的な子どもがする鬼ごっこや造形遊び、スポーツといった遊びはもちろんですが、私自身テレビゲームで学びに火がついた経験もたくさんあります。私は元々歴史や地理が好きでしたが、信長の野望や桃太郎電鉄といったゲームを通して、武将名や戦術、地名、特産物といったことを学びましたが、そういった表面的なことだけでなく、信長の野望であれば国を豊かにすることで軍事力が上がり、敵国を謀略しやすくなることなど、経済と食糧、国力の関係について認識を深める機会を得ましたし、グランツーリスモであればセッティングを変えるだけで運転の感覚が変わり、自分好みの快適なドライビングができるようになることを学びました。
 遊びやゲームには取り組む者の主体性に火がつく仕掛けがたくさんあります。主体性にさえ火がつけば良く学ぶようになるのが人間であると信じることが教育を考える上で非常に重要だと思います。
 『エミール』で有名なルソーは「自然に帰れ」と言って人間本来の学びの可能性と教育の在り方について問題提起しました。温かい親子関係の中でも自然と動物はたくましく成長していくように、人間も子どもを見守り、必要な時にサポートすれば立派に成長していきます。そうであるにも関わらず、子どもがやりたいと思っていないような習い事や必要以上の躾によって「不自然な教育」が施されるようになると、次第に子どもたちは主体的に学ぶことを忘れ、学習に対するネガティブなイメージを膨らませていくことになります。



 教師の役割は徹底的に学び手を厳しくトレーニングするのではなく、教師の元から離れてからも学びが継続するような「主体的な学習者を育てる」ことにあります。必要な時に教え、学習成果を最大化する学びのファシリテーターであり、適切な環境を用意するコーディネーターであることが求められます。
 札幌農学校の初代教頭であるクラークは校則のアドバイスを求められた時に「Be Gentle(紳士たれ)だけで十分です」と答えました。当時のこの学校は下級武士出身の荒ぶれた生徒が多く、そういう生徒を校則で縛ろうとした考えにNoをクラークは突きつけたわけです。
 学習者の可能性を信じること。これは当時も今も変わらない大切なことだと思います。


 デジタル端末を使うときにルール設定を細かく設定し、生徒が自由に使えない状態にしている学校が多く、私の勤務する中学校でも教師が見ているところで許可を得た場合のみ使用可能という状態ですが、これは「生徒が端末で悪いことをする」ことを防ぐためにルール設定しているわけです。実際に端末が不適切に使われることもあるため、このようなルール設定をするのは理解できますが、本当は生徒の可能性を信じて端末を使用させ、「必要な時にサポート」すれば良いだけの話だと思います。そうしてICTリテラシーを育み、学校外でスマートフォンなどを活用するときにも適切な使い方をできる基礎づくりが学校の情報教育として必要だと私は考えています。
 デジタルは現代人にとっての新たな自然と考え、これを使いこなせるように大人が見守り、一緒にデジタルのリテラシーを向上させていくことで、これまでのアナログだけではできなかったような課題の解決が可能になります。それがICT教育の大きな可能性であり、知識獲得は当たり前(そもそも知識はいつでもネットでアクセス可能)の状態になった時に、充実したPBL(課題解決型学習)をベースにした主体的な学びが実現されるようになると考えています。

ICT活用でできること

 ここからはICT活用でできることを「教師の準備で明日から始められること」「教師と生徒が少し慣れたらできること」「文房具のように使いこなす」にレベル別に分けて紹介します。私自身ICTは素人の状態で始まったGIGAスクール構想でしたが、授業をする中で自然とICTが必要になり、実践してきたものばかりです。もし、使えそうなものがあれば早速実践してみてほしいです。












 ここまでの内容は教師が一律に「教える」必要がなくなったことに関連しています。知識の一斉指導に多くの時間をかけるのではなく、あくまで生徒の必要に応じて学べるように環境を整えることはそれほどハードルとして高いものではありません。
 ここからはICTに教師も生徒も少し慣れたらできることを紹介します。これもそれほど難しいことではありませし、「指導と評価の一体化」という面で有効な振り返り(レポート)やルーブリックは是非取り組んでほしいものになります。











 
 Googleフォームでのテスト対策問題は作成にはかなりの労力が必要になりますが、学習効果が高いため是非試してほしいです。一人で作成するとかなり大変なので、教科担当が複数名いる場合は協働作業で問題を作成すると良いでしょう。


 最後は文房具のように学習で使いこなす方法です。先の二つのレベルに関しては、ICTを使わなくても気合と根性と物資の力でなんとかアナログでもできる内容でした。どう考えても負荷が高すぎるのでICTを使うわけで、デジタライゼーションのレベルに留まるものでしたが、ここからはDX(デジタルトランスフォーメーション)のレベルになると考えています。要は学びが根本的に変わるというものです。それがICTの文房具化によって可能になります。そして、このレベルに到達した時に学習のPBLが常態化していくと考えています。


 デジタルのファイルはアカウントの共有によって協働作業が可能になり、自由にチームを組んで取り組むことができます。チームを組むというのはこれまでにも普通に行われてきたことですが、デジタルの場合は教室の空間に縛られず、他クラスや他校の生徒と作業をすることも可能になります。そうなると、学校の中での閉じた学習ではなく、学校外も含んだ開かれた学習が可能になり、地域や企業とつながることで学校では予想もできなかったようなプロジェクトが始まる可能性もあります。これまでは他校や地域、企業を教師が仲介して取り組む内容をコントロールして生徒にさせることが多かったですが、生徒の主体性のままにプロジェクトを進めることも可能になりました。まだまだ地域や企業とつながるような取り組みは十分ではありませんが、今後の可能性としてデジタルでつながるというのは非常に大きな可能性があると言えます。



 先ほど紹介したGoogleスライドの振り返りシートですが、振り返りは学習のメタ認知と教師が生徒の学びを見取るために最低限のものとして考え、最終的に学習者の主体性のままにレポート化すると、生徒の中には壮大な研究レベルのレポートを作成することもあります。レポートは一般的な紙媒体でも良いですが、Googleスライドのレポートはアニメーションを入れることができるため、レポートショーを作成することもできます。
 プレゼンテーションとしてスライドを作成する場合は文字が小さいと印象に残りにくく視覚効果も得られないので、文字はわかりやすく大きくが鉄則ですが、レポートショーであればそのようなことを気にする必要もありません。本を読んでいるときに画像が動くようなものと考えれば良いでしょう。GoogleスライドはPower PointやKeynoteに比べるとできることが限られていますが、それほどハイスペックでなくても十分に視覚効果を高めることが可能です。
 プリントを使った振り返りシートや、Word、ドキュメントではできない演出効果や画像活用のやりやすさ、Googleスライドでレポートを作成することの可能性は非常に大きなものがあると思います。一般的にはレポートはWordやPages、ドキュメントを使うことが多いと思いますが、資料のわかりやすさという面ではGoogleスライドで作成するメリットは無視できないものであると思います。
 今後生成AIの発展によってスライドをドキュメント化することが容易になるでしょうし、その逆にドキュメントをスライド化することも容易になることも予想されます。そのような状況が目まぐるしく変わる中ではありますが、学校の授業1時間の学びを手軽にスライド1ページに収め、それを蓄積していく取り組み方は手軽で、それをそのままレポート化することもスムーズにできるので、現段階ではGoogleスライドを活用した振り返りとレポートを私は実践しています。
 Googleスライドの振り返りとレポートは生徒同士での共有も簡単にできるため、お互いの学習を参考にして学びを深めることも可能です。私が担当する美術では考え方や価値観の共有が学習のポイントになるため、作品だけでなく、レポートを鑑賞することにも大きな意味があります。その際に、紙のレポートでは制限が多いため限られた時間ではまともに見ることが難しいですが、デジタルであれば時間や場所に縛られずに見ることも可能になります。
 このように、深い学びをレポートによって実現するだけでなく、それを共有して制限されることなく見ることができるデジタルの利便性は積極的に生かしていく価値があると思います。


 ICT活用によって知識を詰め込んでテストで暗記力を試すよりも、知識をいかして実践するコンピテンシーが重要になります。自ら課題を設定した際に、自然と疑問が生まれ、その疑問を解決するために演繹的な想像力を駆使することになります。この想像力にはある程度の知識も必要になるので、これまでのように教科書の内容を理解することに加えて、必要に応じた知識の獲得が必要になります。この知識の獲得において教師からの一斉指導は機能しません。各自で調べることになります。そのような学習の中で、課題に対する帰納的な分析力も自ずと必要になることでしょう。知識を得て何となく想像を膨らませるだけでは頭の中がすっきりしません。「本当のところはどうなっているのか」を分析することによってさらに強力な知識となり、知識と思考力のサイクルが循環していきます。そんなクリエイティブな学習をするためには情報が必要になりますが、それに対する読解力や活用力はさらに重要になります。
 そのような研究と言える営みはこれまで大学生や大人が行ってきたものですが、一人一台ICT端末の実現と、主体性を重んじる教育方針によって義務教育でも可能になりつつあります。そこへの意識を教育に携わる人が持てるかどうかが大切なのではないかと思います。
 生徒が主体性を発揮して学び始めると、大人にとってもそこから学べることは多く生まれます。大人と子どもが互いに刺激を与え合いながら学んでいく。そんな学びに溢れた社会にもつながるのが新学習指導要領とGIGAスクール構想の可能性なのではないでしょうか



教育の目的として「幸福に」生きる力を

 これまでは学校で成績を競うような文化がありました。競争すること自体は悪いことではないと思いますが、学習の目的が良い成績や順位を取ることになってしまうと、学びの本質から離れてしまい、主体的に学び続ける人間でいることが難しくなってしまいます。学校から出るとテストで競争する機会はほとんどなくなりますし、出世競争のために社会に出るわけでもありません。大切なのは「幸福に生きる」ために満足できる学校生活を送ることであり、その実績を積む場として学校が存在するのではないかと考えています。
 実績と聞くと成績と同じようなものとして考えられるかもしれませんが、極端な話、「学校で最高の人間関係を作る」ことに一生懸命取り組み、それを実現したのであれば十分に誇れる実績だと思います。「実績」は誰かが決めた評価基準に従って獲得する「成績」とは違い、自らプロジェクトを考え課題解決するものです。このような個人内の満足度に関することはAIやロボットにできることではありません。逆に成績に関することはAIやロボットと比較される得るものですし、今後人間が太刀打ちすることがどんどん難しくなっていくことがほとんどです。



 学びたいことを学び、挑戦したいことに挑戦する。そんな人間として当然持っている意欲を安心して発揮できる場所として学校は今後機能していく必要があると思います。ICT活用はそのための一つのツールです。
 個別最適な学び、自ら設定する課題で生き生きと学習することができれば、学校には活気が出てくることでしょう。この学習環境では実践力が問われるため、学校の中で様々なものが生み出され、それらが混ざり合って調和したり、化学反応が起きたりすることもあるでしょう。それは祭が参加者によって盛大になるのと同様です。
 先日出張で沖縄へ行ってきましたが、沖縄ではさまざまな文化が混ざり合い、チャンプルー(ごちゃ混ぜ)の思想が浸透しています。街はイベントや人の交流に溢れていて活気があります。そういう学習環境について考えていくことが大切だと思います。

 これまでの学校教育はパノプティコン(牢獄)のシステムと類似していると言われることもありました。そのような監視と管理の教育では生徒は失敗を恐れ、挑戦をしなくなってしまいます。教師にとって都合の良い優等生になることが競争化してしまうこともあったことでしょう。しかし、学校は本来「アテネの学堂」のように活気ある自由な学びと交流の場であり、挑戦と実践に溢れた環境で、そこにいる人が幸福に過ごし、「明日も学校が楽しみ!」となるような場所であっても不思議ではないはずです。それを実現するのが大人や教師の役割として非常に大きいと考えています。


 一般的な学校にアテネの学堂に見られるような哲学者や偉人がいるわけではありませんが、今の時代は生成AIによっていつでも彼らの世界観に触れることが可能になっています。AIが間違ったことを平気で話すことは配慮するべき危険事項かもしれませんが、間違いや嘘を言うのは人間も同じです。全てをAIに頼ってしまっては学びの楽しさがなくなってしまい、学習者が生き生きとすることは難しくなってしまいますが、対話の相手、考えていることの壁打ちとしては非常に優秀で、特に外国語学習においては今後劇的な成果を上げていくことでしょう。仮想ソクラテスと英語で会話することもChatGPTを活用すると可能です。使ってみてわかるのですが、問い掛け方(プロンプト)次第で、本当に哲学者と話をしているような感覚になります。
 授業の中でも生成AIは今後様々な活用ができるようになるでしょう。そういったことに常に興味関心を持ち、最低な学習環境をコーディネートすることが教師には求められています。




 最後まで読んでくださってありがとうございました。今回は研修会で発表した内容をブログ版にまとめ直したので、容量が多くなりましたが、その分研修会でも話せなかった内容を盛り込むことができました。今回の内容が読まれた方にとって何か参考になるものとなれば嬉しいです。
 今後も全ての人の幸福に貢献できる学校教育の在り方について研究と実践をしていきたいと思います。2023年もあとわずかですが、年末年始休みまでは仕事で全力走行し、休暇は物理的に全力でランニングしてメリハリのある生活をしていきたいと思います!
 それではまた!



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