観点別評価AとCの混在への違和感について

 1学期が終了し、今日から夏休みに入りました。夏休みに入っても部活動やその他の仕事がたくさんあるためそれほどゆっくりできるわけではありませんが、これまでに比べると多少は趣味に充てる時間が増えるので、やはりいくつになっても夏休みは嬉しいものです。

 一般的に1学期最終日に生徒に渡す通知表。これが渡される際のドキドキ感は今の生徒も昔の生徒もあまり変わらないような気がします。成績に自信があるなしに関わらず、渡される前はとにかくソワソワしていて、通知表というものが及ぼす影響には非常に強い力があると言えます。それは教員として仕事をしている自分の勤務評価が渡される際の感覚も同様ですね。

 ただ、この通知表というものが生徒の学習状況に対する適切なフィードバック(観点別評価のABC)になっていないと、1から5までの評定という分かりやすい成績をただ確認したり、友達と比較したりするだけのものになってしまいかねません。「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」の3つの観点のABC(個人的にはSを作って欲しいと考えていますが)が生徒の学習の実態を表すものとしてフィードバックされ、その後の学習につなげてこそ通知表の役割を果たすことにもなります。

 今回、通知表の観点別評価について記事を書こうと思ったのが、観点別評価にAとCが混在しているケースをよく目にすることがあり、これについて私は違和感があるためです。本来、3つの観点は相互に関係し合うものであり、A(非常に優れている)とC(成果が不十分で努力を必要とする)が混在するような評価というのは、そもそも評価方法自体に何かしらの問題がある可能性が考えられます。

 教師としてABCで評価する機会がある人は1%程度の人間にしか当てはまりませんが、全ての大人が通知表を受け取ったことがありますし、親として通知表が渡される機会のある人ももちろん多いので、色んな人にこの問題について考える機会にして欲しいと考え、記事を書きました。



CCAとAACは特に強烈な違和感

 「知識・技能」がC、「思考・判断・表現」がC、「主体的に学習に取り組む態度」がA。そんな評価を度々見ることがあります。このような評価は教師の指導を速やかに改善する必要があることを文科省から出されています。(関連資料

 ではなぜこの評価に問題があると言えるのでしょうか。まず、CCAの評価を受けるような生徒の学習状況とはどのようなものかイメージしてみましょう。端的に言うと、「主体性を発揮して非常に優れた学習を実践しているにも関わらず、知識・技能が身についておらず、活用することも十分にできていない」という状態です。そんなことがあり得るのでしょうか?少なくとも、私が担当する美術科では主体性を発揮して様々な表現に挑戦している場合、それ自体が知識・技能と思考・判断・表現を生かした活動になっているので、基本的にはB以上の評価になるはずです。

 同様にAACという評価も非常に違和感のある評価です。知識・技能を活用して非常に優れた思考活動をしたり、表現をしたりしている生徒が主体性において基準に達していない状態というのは想像しにくいことだと思います。主体性が乏しければ非常に優れた知識や技能を獲得したり、活用したりすることは現実的ではありません。

 つまり、三つの観点はそれぞれに関係しあっているため、どれか一つが極端に低いという評価はかなり特殊な状況になっているということです。テストではうっかりミスなどで大問を丸ごと落としてしまうということもあり得ますが、通知表のような長期間の学習を評価するものであれば、テスト以外での学習評価もあるため、極端な評価の差は生まれにくいはずです。


CCAとAACが存在する原因 〜主体的な学習への理解不足〜

 しかし、実際にはそのような評価がしばしば見られますし、現場の空気としてもCとAの混在については文科省の理屈は分からなくもないが、現実的には「あり得る」と考える教師が少なくありません。では、どうしてそのような評価が生まれてしまうのかということについて考えてみると、教師が指導に対する考え方をアップデートできていない状況が浮かび上がってきます。

 「主体的に学習に取り組む態度」という評価が設定された現行の学習指導要領になる前の学習指導要領までは、「関心・意欲・態度」が学習への取り組みを評価するものとして存在していました。私自身が中学生だった頃にもこの評価が使われており、現在学校教育に携わっている教師のほとんどがこの「関心・意欲・態度」に慣れているという事実があります。

 ではこの「関心・意欲・態度」は主にどのような形で評価されてきたかというと、授業態度や挙手の回数、宿題などの提出物を出しているかどうかといった部分が評価の対象として扱われてきた傾向が強いです。しかし、このような評価方法では生徒の内発的な学習への動機づけにつながりにくく、教師の都合が優先された評価になってしまうことも少なくありませんでした。たとえ教科の内容への関心や意欲があったとしても、提出物自体には全く関心がなく、提出状況が悪いだけで「関心・意欲・態度」の評価がCになってしまう生徒もしばしば見られました。なので、テストや普段の授業で成果を出していても観点別評価ではAAACという現象、もしくは知識や技能、思考力が全く身についていなくても、提出物さえ出せたら「関心・意欲・態度」にAがついて、観点別評価CCCAという現象も決して珍しいものではありませんでした。

 そんな学びの実態を反映できないような評価の欠陥を改善すべく、現行の学習指導要領では「主体的に学習に取り組む態度」に変更となりました。これによって何が起きるかというと、教師は生徒の主体性を生かせるような指導をする必要性が高くなったということです。学びへの主体性は生徒が「やりたい」と思える内容でなければ生まれません。しかし、一人ひとり「やりたい」と思える内容や学習方法は異なるため、教師が寄り添って個別最適な学習環境を実現できるよう努力する必要があります

 つまり、「主体的に学習に取り組む態度」にCがつくような指導というのは、生徒だけでなく、教師自身にとっても指導を改善していかなければならないというフィードバックになるわけです。生徒の状況が余程ネガティブなものでない限り、この評価にCがついてしまうというのは教師にとって反省するべき状況だと思います。そう言った意味で、私自身も常に反省の日々で、なんとか全員が主体性の面でB以上の評価になるよう指導の改善に努めています。

 しかし、現場では、提出物の完了度を「主体的に学習に取り組む態度」の評価に反映させる割合が依然として高い傾向にあります。学習内容への興味から知識や技能を身につけ、思考力も発揮していたとしても、ワークや宿題のプリントが出せていないだけで「主体的に学習に取り組む態度」にCがついたり、逆に学習内容に全く興味がなくて学びたいとも感じていない生徒が提出物の答えを丸写しして全て出しことで評価にBやAがつくという、学習状況の視点で考えると強烈な矛盾が存在します。

 それゆえに、CCAやAACという評価は、そもそも指導と評価の一体化ができていなかったり、生徒の主体性とは関係ない部分で主体性の評価をしていたりするなど、フィードバックとしては欠陥のあるものとして考えなければいけないということです。提出物を評価すること自体は問題なくても、それをどのようにして取り組んだのかを見取った上で弾力的に評価することが求められます

 また、学習の振り返りやレポートは生徒の学習内容や気づきを教師が見取る上で有効であるため、評価に反映させやすいものですが、それが提出物として出せていないからと言って必ずしも学習への主体性が乏しいとは限りません。学習内容に夢中の場合、わざわざ振り返ることに時間を使うことが優先順位として低くなることも十分に考えられます。造形遊びに夢中になって物凄いものを創造している子どもに振り返りやレポートを無理やりやらせて、経験を言語化できていないからといって主体性が乏しいと判断するのは短絡的と言えるでしょう。

 あくまで提出物は学習状況を見取る上での「一つの目安」であり、ワークやプリントの答えを全て埋められているかどうかは主体的に学習に取り組んでいるかどうかの判断材料としては不十分です。指導しながら様々な角度から生徒を評価しさえすればCとAが混じったような歪な評価にはならないと私は考えています。


合理的配慮への理解不足

 新学習指導要領(と言ってももう4年目ですが…)による学習指導の大きな転換が行われた一方で、現場ではこの視点を自分の指導に落とし込むことができず、これまで通りの方法で指導をして、全員同じ内容の提出物をさせているのが現状です。そこには通常教室における合理的配慮(LDなどによる識字障害)などの視点も完全に欠落しています。口頭で内容を理解したり、説明したりすることが得意でも、テキストになった瞬間に理解も表現も困難になってしまう生徒は一定数(大体7%程度)います。そういった生徒の場合、文章を書き写す事さえ障害をもっていない人の何倍も時間がかかってしまいます。識字障害があると文章をそのまま覚えて書くことができず、漢字が入ると一画一画見ながら書かなければいけないという人も少なくありません

 そのような識字障害をもった生徒の場合、紙の提出物を出すことは困難になります。もし、教師が識字障害に対して理解があり、弾力的に課題を出すことができるのであれば良いのですが、残念ながら多くの場合は全員同じ内容の提出物が課され、教師は提出状況を評価するため、「主体的に学習に取り組む態度」はCとなってしまいます。そして、他の観点もテストの成績が強く反映されるため、Cが並んで評定1になることもよく見られます。いくら学びに対する主体性があったとしても、識字障害のある生徒は提出物が出せず「怠けている」と判断されてしまう傾向があります。口頭でのやり取りでは普通に見えるため、単純に勉強が苦手でやる気がないと判断されてしまうことも珍しくなく、こういう状況で生徒の自己肯定感や自己有能感にネガティブな影響が出てしまうことも考えられます。


大量の課題は提出することが目的化

主体的な学習には程遠いものを評価として扱う矛盾

 夏休みといえば、大量の宿題をイメージする人も多いでしょう。しかし、最近宿題を廃止する学校が少しずつ増加しています。その代わりに自由研究などの主体性を発揮して取り組めるものが重視されるようになってきています。この背景には、大量の課題が出されることによって、内容の理解に時間を割くよりも課題を終わらせることが優先されるようになり、全て終わらせた状態で提出することが取り組む目的になってしまう生徒がたくさんいたという問題があげられます。そして、やはりこの夏休みの宿題も「主体的に学習に取り組む態度」として評価に反映されることが多く、個々のレベルに関係なく一律で配布される主体性とは関係のない課題であるにも関わらず、主体性を評価するものとして扱われてきた傾向があります。残念ながら、こういった個別最適化とは程遠い課題は主体性を育むどころか、学びに対する主体性を損なってしまう可能性の方が遥かに大きいと私は考えています。

 課題を提出することが目的化すると、振り返りながら知識を定着させることがなくなってしまいます。数十ページのワークに全て取り組んでから答え合わせをし、ただ正解を記入するだけなら取り組みの時間に「無駄」はありませんし、答えを丸写しすれば最短の時間で終わらせることもできます。夏休みの最後に猛烈に追い込みをかけて終わらせる生徒の多くはこの取り組み方だと思います。

 しかし、本来知識の定着には振り返りや繰り返しの学習が不可欠であり、大問や半ページごとにこまめに答え合わせをして内容の理解と確認に努め、そこからさらに活用や応用の問題でアウトプットを通して理解を深めることで効果のある学習が可能になります。

 課題を提出することが目的化した取り組み方は学力の向上につながらず、ただ時間と教材費を浪費しているだけでなく、せっかくの夏休みまで犠牲にしてしまいます。それゆえに一律で同じ課題を生徒に課すのではなく、一人ひとりの主体性を重んじて自由研究など自由度の高い課題を取り入れる学校が増えているのは理に適ったことであると私は思います。自由研究以外にも短期留学したり、地域のプロジェクトに参加したり、夏休みというまとまった時間があるからこそ、挑戦できることはたくさんあります。こういったことに存分に取り組めるよう、普段から主体的に学習できる環境を学校が生徒に保証することが大切だと考えています。


 最後まで読んでくださってありがとうございました。今回は観点別評価でAとCが混在すること、特に「主体的に学習に取り組む態度」とそれ以外の観点がAとCで真逆の評価になってしまうことへの違和感と問題点について私の考えを述べさせていただきました。問題が根深いため合理的配慮や夏休みの課題のあり方についても関連することを書きました。1日でも早く、主体性を発揮することが難しい課題が一律で設定される状況が改善されて、多くの生徒が「三度の飯より勉強が好き」と言うような勉強大好きな状態になるような課題設定が一般化することを願っています。

 今回の内容が読まれた方にとって、教育や学びの本質について少しでも参考になるものとなれば幸いです。今後も私自身は主体性を発揮して研究と実践を楽しんでいきたいと思います。

 それではまた!

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