文化祭を終えて

  昨日の10月11日は文化祭(北中祭)が開催されました。文化祭にあたるイベントがなくなりつつある時代ですが、改めて学校という場の存在意義を果たす上で大切なイベントであることを考える機会となりました。

 文化祭や体育祭といったイベントがあるべきかどうかについては各学校の事情もあるので正解不正解はないと思いますが、個人的には今後も無くなって欲しくはありません。

 今回、文化祭の可能性について考えをまとめましたので、教育の一つの視点と思って読んでいただけると嬉しいです。


作品展示で美術の魅力を感じる機会

 私は美術教師なので、多くの人に作品鑑賞してもらえる機会となる文化祭は必要であると考えています。講師時代を含めて美術科を担当してきた14年間、全ての年に文化祭にあたるイベントが開催されましたが、展示をしなかったのは現在の学校に赴任した1年目、コロナ禍真っ最中の2020年の1回だけです。文化祭は開催されましたが、規模縮小の煽りを受けて展示ができませんでした。文化祭が開催されて展示ができる状態であれば、私は間違いなく美術科の展示を行います。

 作品展示は鑑賞の機会として役割を果たすのは当然ですが、私は美術作品が体育館に展示されるだけで雰囲気が大変華やかになり、文化祭にふさわしい会場になることも重要であると考えています。これによって美的なものの影響力を感じてもらうことにも繋げられます。美意識の刷り込みですね。体育館が展示によって普段とは全く違う空間に仕上がっている光景を見ると自然とWOWとなりますし、そこに何があるのか興味が湧きます。そうなったときに魅力的な作品が目に留まり、どういうところに魅了されたのかメタ認知する機会にも繋がります。

 純粋な作品鑑賞という意味では普段の授業で行う作品鑑賞の方がじっくり見て感想や考察まで記録する時間があるため、圧倒的に深い鑑賞体験にはなりますが、何百にも上る(本校の展示では美術科と美術部の作品を合わせると1000を超えました)作品を見て、自分の中で厳選された作品に目が留まるという体験も美意識に働きかける影響力は大きいと思います。



作品展示に向けて制作に励む生徒

 今回の文化祭に向けた活動の中で新鮮な光景と出会うことができました。それは3年生の作品についてです。3年生の作品は1学期の前半に制作した数時間でできる平面と立体の作品(テーマは「自分を丸ごと生かしたアート」で共通)で、基本的にはそれぞれ1点ずつの計2点が完成していましたので、これを全作品展示しました。これに加えて、現在取り組んでいる最中の「アート&デザイン研究」という教材で、すでに作品が完成して札(名前とタイトル、研究の内容と成果を記入)を貼り付けできている作品は展示することにしていました。

 ただ、アート&デザイン研究はまだ制作時間が数時間残っているクラスばかりで、完成作品は文化祭が開催される数日前までそれほど多くはありませんでした。この時点では、生徒も完成を急いでまでして展示する必要性を感じてはいないものと考えていました。

 そんな中、文化祭準備の前日に補習を放課後に取り、制作が遅れていたり、作品展示に間に合わせたりしたい人は補習を利用できる機会を設けました。私は内心それほど多くの生徒が参加するとは思っていませんでしたが、意外と多くの生徒が補習に来て最終下校直前まで取り組む姿が見られました。それでも間に合わない場合は家で制作して、文化祭準備の際に完成させたものを持ってくるという熱い想いを持っている生徒もいました。

 アート&デザイン研究で取り組んでいる作品はこれまでの学習で得たことを生かして自由制作するというもので、制作しながら表現や美術の意義について研究してレポート化します。まだ制作途中の作品が多いですが、造形的な実験をしつつ研究を充実させ、挑戦的に取り組めている生徒がたくさんいます。教師にとっても発見に溢れた制作活動が行われているので、ありがたいことに毎時間とても楽しく授業することができています。当然、そのような状況であれば生徒にかける言葉もPBIS的なポジティブなものが多くなり、工夫に対して具体的に認めて賞賛する機会も非常に多くなります。そのような声かけがどれほどの効果があったのかは数値化することは困難ですが、今回の文化祭に向けて、何としてでも作品を展示したいと考えて、制作にアクセルをかけた生徒が何名もいたことは、とても喜ばしいことでした。

 手応えのある作品であれば、展示して人に見てもらいたいと思うのは承認欲求を持っている人間であれば普通のことです。ただ、その承認欲求があるからこそ頑張れる部分もありますし、その承認欲求を超えて、人が喜ぶ姿や楽しむ姿を見たいという他者の幸福を思って制作できるようになれば、美術の活動がライフワーク的な生きがいの一つにさえなると思います。

 文化祭という多くの人に見てもらえる場があるからこそ、モチベーションが上がり、制作にアクセルをかけることにもつながる可能性があることを発見できたことは大変有意義でした。


学校の存在意義 生徒が活躍する機会の創出

 通常の教科の授業ばかりだとそれほど目立った「成績」を残すことができない生徒であっても、こういったイベントになると普段とは別人のように活躍して周囲を驚かせるケースがよくあります。私の勤務校ではステージの部に3年生の合唱と国語科の弁論(3年生代表1名)、英語科のスピーチ(3年生代表1名)、新旧生徒会執行部の発表、吹奏楽部の演奏があります。勉強も運動も苦手でも歌は得意、歌が苦手でも英語は達者、そんな才能が学校の中にはたくさん潜在しています。そういった個性的な力を発揮する良い機会になるのが文化祭の存在意義の一つだと思います。さらに言うならば、これは学校の存在意義とも言えるでしょう。

 学力をつけるだけであれば、家でも十分に学べる環境が現代にはあります。ただ教科書の内容をなぞって取り組むだけであれば、ある程度の生徒の場合、自主勉強した方が短期間で学力を伸ばすことさえできると思います。しかし、合唱は学校で仲間と一緒出なければできませんし、合唱の取り組みも生徒の中にリーダーがいることで、より健全に取り組むことができるようになります。文化祭に向けた取り組みの中で、熱い想いをもって個性を遺憾無く発揮し、人間として成長が促進される、こういうことが学校の存在意義として特に重要なものとして、今後さらに考えられるようになってほしいと思います。


最後まで読んでくださってありがとうございました。今回は文化祭を終えて改めて考えるに至ったことについてまとめました。学校教育について考える一つの視点として読んでいただけると嬉しいです。

 それではまた!

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