画像生成AIのNano Bananaを使ってみて 〜改めて考える造形行為と造形教育の意義〜
GoogleのNano Bananaによる生成AI画像が話題となっていますが、皆さんは使われたことがあるでしょうか。私は以前からChatGPTやGeminiで画像生成を利用してきましたが、Geminiの画像生成機能として使えるNano Bananaを試しに使ってみました。
私はGeminiを無料版で利用しているので、Nano Bananaは少しの回数しか使えませんが、少し使って分かったのが、その機能の高さです。画像生成はこの数年で劇的にレベルがアップしているというのが実感です。
しかし、その一方で、やはりAIが苦手としていること、そしてそれゆえに美術教育の可能性として今後も大切にしていかなければいけないことが浮き彫りにもなったと感じています。
今回は、画像生成AIが広く使われる状態になった今だからこそ改めて見つめたい造形教育の意義について私なりに考察をまとめてみました。結局行き着くところはウェルビーイングなのかもしれません。
良かったら参考までに読んでくださると嬉しいです。
優秀ではあるが無難なNano banana
ChatGPTとNano Bananaに同じ質問をしてキュビスム風(ピカソの有名な画法)の富士山の絵を生成させました。比べるとNano Bananaのクオリティが非常に高いことが伺えます。
上はNanobanaan、下はChatGPT
最近はChatGPTよりもGeminiの方がチャットでも良いアウトプットを出してくれるので、Geminiが非常に便利なアプリとして成長していることが顕著になってきたと感じています。
そんな優秀なGeminiのNano Bananaに色んな生成をお願いしてみました。
まずは学校の画像をアップロードして、それをモネが描いた感じに加工するようプロンプトを入れてみました。すると、印象派らしい雰囲気の画像に見事に作り変えてくれました。
少々車の描写が硬いですが、全体的にはモネも驚くクオリティで描いてくれています。
印象派の表現は当時写実性の乏しさを揶揄されることがありましたが、そうは言っても、そこそこ写実的な表現ではあるので、こういう加工はAIにはお安い御用だったのかもしれません。
ここから写真と質問を変えて、ピカソのキュビスム風の表現にアレンジするようお願いをしてみました。
すると、ベースとなる画像をなぞったようなキュビスム風のアレンジに。もしもピカソがこれを見たら「キュビスムではない」と間違いなく言うことでしょう。キュビスムの複数の視点から対象を見て絵を再構築する要素があまりに乏しく、それっぽい線を写実的に捉えた画像の上から入れただけのようにしかなっていません。
このアウトプットは非常に残念でしたが、まだまだNano Bananaの可能性を信じたい私は、プロンプトに「分析的キュビスム」を入れて、絵を分解するよう指示を出しました。その結果生成されたのが以下の画像です。
色がモノトーンになりました。
この加工はピカソやブラックといった分析的キュビスムの画法を実践した作風から考えると、色彩の面では確かにそれっぽいところがあります。しかし、分析的キュビスムの本質はあくまで形の捉え方であり、形の要素を辺でバラバラに分解して合体させるのが特徴の描き方です。なので、この生成画像は色を表面的に模しただけであり、本質的なところは何も理解できていないことになります。
では色のアレンジなら得意かと思って今度は色彩の魔術師と言われたヘンリー・マチス風に画像を生成するよう指示を出してみました。
結果的に男鹿和雄(ジブリの絵職人)が描いたような絵になりました。感情に訴える激しい色彩(野獣派)が特徴のマチスを再現したとは全く言えない画風です。
Nano Bananaをこのように使ってみると、画像生成AIの現在の限界と、そもそも人間が描くことの意義について非常に明確な考えが浮かんできました。
人間の主観はアートになり得る
綺麗で誰もが分かるような加工はAIが非常に得意としていますが、人間ならではの主観を色濃く反映した表現は正解値や平均値を出すのが得意なAIにとっては理解しようがない世界であり、表現困難です。どうしても普通の表現になってしまいます。
人間は主観をコントロールすることによって、意図的に常軌を逸した考え方であったり、普通の人では考えないような視点で物事を捉えたり、無限の答えを創造することが可能です。それによって生み出される表現に対して私たちは感動し、驚かされます。
ピカソの絵がバリュエーションに富んでいて、どの作品も視点の扱い方が一定ではないような表現が可能なのは、ピカソがそもそも「一般的な」カメラのような固定化した捉え方をしたものを写し出しているのではなく(ピカソ自身はそれをやろうと思えば難なくできましたが)、人間ならではの生きた視点を大切にしていたからだと思います。原始芸術や子どもの表現にピカソがヒントを得たのも、人間ならではの「生」、本能的な美を表現から見出した故であると言われています。
岡本太郎が火焔型土器に衝撃を受け、創造活動に大きな影響を受けたというエピソードも有名です。人類が元々持っている生命感のある造形というものは、当の造形者の主観が純粋に造形に向かった結果、強烈な個性となって作品として形になります。そのような各々が持つ主観がアートの要素として重要な意味を持っていると私は考えています。
画像生成AIの弱みは、このような人類ならではの主観を生かした「生」の造形要素が出しにくく、あくまで元あるものを例に応じて加工する程度のことしかできないところにあると思います。時としてネジがぶっ飛んだ奇想天外な表現を生身の人間はすることがありますが、根本が優秀なAIにはこの馬鹿になれない点が逆に創造力という点で弱点になっていると言えます。
そもそも創造を楽しむことが大きな価値
これまでにもお話ししたことがありますが、創造する楽しさと、創造活動に夢中になって取り組むマインドフルな時間、これら自体が人間のウェルビーイングに関わる重要な事柄です。創造力を生かすことは絵画や彫刻に限ったことではなく、人生のあらゆるシーンと関係があり、人とコミュニケーションをしたり、遊んだり、難しいことにチームで取り組んだりと、実にたくさんの場面で創造力が重要な役割を果たします。
AIエージェントが現実的になってきていると言われています。これはAIが我々に代わって買い物や状況判断などを代行してくれるもので、これが実現するとこれまで以上に人間は快適な暮らしができるようになるとも言われてきました。しかし、それがどうも部分的に違うのではないかという状況も見られるようになってきています。それは、「自分が判断したいことをAIに判断されたくない」という反AIエージェントの動きです。「人間は楽をしたい生き物」という単純な前提によってAIエージェントの開発が行われてきた節がありますが、これは確かに人間が面倒でやりたくないと思っていることに関してはAIエージェントがありがたいことも考えられます。しかし、料理や服の買い物であったり、昼食のお店選びであったり、こういったことは非効率的であっても、人間は自分で悩んで決定したい場合もあるということです。むしろ主体的に悩む、そんなことさえ人間は時として求めます。なぜなら、そこに「楽しさ」という人間の「生」にとって重要なエネルギー源があるためです。全てAIにエージェントしてもらうというのは、自己効力感の喪失を意味します。これはウェルビーイングの観点からすると、非常に危惧すべきことです。
創造行為であったり、楽しい悩みの時間であったり、こういった過程自体に人間としての生きる意味があることを考えると、安易に生成AIで画像を作成して満足し、「絵を描くことや技術は人間にとって必要ではない」と考えることは、人間として充実した時間を送る選択肢の一つを犠牲にしてしまうことに他ならないと思います。
創造行為を楽しむこと自体はおそらく永遠になくならないと私は考えています。なぜなら創造行為の源泉には「遊び」があり、人間が「遊び」を手放さない限り、創造行為を楽しむこともなくならないと言えるためです。人間が遊ばなくなるとは考えられません。むしろ、労働(ここではクソ仕事(Bullshit job)に限定)から解放されることで、人間は遊ぶ時間が格段に多くなると思います。これまで何度も遊びについてはお話をしてきましたので、今回は深掘りはしませんが、遊びという現象が人類にとって欠かせないものであり、教育という面からも遊びの可能性は最近ますます注目を集めるようになってきました。そんな遊びの一つである造形行為は色と形と構成、素材の遊びとしてこれからも大切にされるべきものです。図画工作・美術教育は今後ますます重要な役割を果たすことになるでしょう。その責任を美術教師として感じているからこそ、こうして文章にもしています。
全ての人に造形行為の魅力を体験的に理解してもらい、遊びのリテラシーの一部として造形的な創造力を培ってもらえるようにすることが造形教育のミッションだと考えています。これからも画像生成AIの進化は注視を継続したいと思いますが、まずはより魅力ある造形教育を目指して励んでいきたいと思います。
最後まで読んでくださってありがとうございました。今回はGoogleのNano Bananaを使ってみて、改めて造形行為と造形教育の意義について考えてみました。全ての人にとって造形行為を楽しむというのは無縁ではないと思います。今回の内容が何か参考になれば嬉しいです。
もう年末が近づいてきましたね。年末といえば、年賀状作成。今でもアナログで年賀状を版画で作成している私ですが、これも今年で12年目。そう、とうとう1周するわけです。実は申年(2016年)のみ絵を描いて印刷で済ませた年もあったのですが、それ以外は全てステンシル版画ということで、今年もアナログにこだわってやりたいと思います。版画も1枚1枚作成する過程が充実した時間になり得ます。
というわけで、また年賀状版画が完成したら紹介もしようと思います。年末にやらなければいけない仕事はたくさんありますが、なんとか時間をマネージメントして作成したいと思います。
それではまた!











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